―目が覚めると、そこは。
ただ一面の暗闇。
何故だか酷く頭が痛んだ。
全身を気だるさが包んでいて、呼吸すら億劫になる。
閉じてしまいそうな瞼を懸命にこじあけて、目を凝らした。
塗り込めたような暗闇は奇妙な切迫感があって、押し潰されてしまいそうな息苦しさを錯覚させる。
体を動かすと、さらさらと布地を滑る音がして、何処かに横たわっている事に気付いた。
体を起こそうとして、ふと違和感を覚える。
手首に、冷たい感触。
背筋にぞっと、嫌な予感が走る。
頭はますます混乱していたが、冷静さを取り戻そうと息を吐いた。
ちゃらり、と鎖が乾いた音を立てた。
何、これ。
私は何で、拘束なんてされてるんだ。
無理に頭を動かすと、激しい頭痛に吐気がした。
それでも、もがくように身をよじって、どうにか体を立たせた。
手首と同じ、ひんやりとした金属の感触が足元にもあった。
瞬間的に私は、恐怖を覚えた。
―犯られる。
その時。
不意に、一筋の光が部屋に指し込んだ。
「目が醒めたんだ。」
細く開いたドアの隙間から、音もなくするりと誰かが滑り込んで来た。
ぱたん、と静かに扉が閉められる。
―逃げ場がなくなった。
かちかちと奥歯が、耳障りな音を立てる。
私は歯を食い縛って、体の震えを懸命に押しとどめようとした。
「…そんなに脅えないで。」
その『声』は、あくまでも静かに、私に語りかけてきた。
みしり、と床が軋んだ音を立てる。
「こ…来ないでっ…!」
私は必死に声を張り上げた。
だけど緊張で乾ききった喉からは、か細い悲鳴しか出ない。
真っ暗闇の中、見えない相手に向かって、私は抵抗を繰り返した。
「手荒なことしてごめん。でも、こうするしか無かったんだ。」
だからそんなに怖がらないで。
『声』の相手は、ぽつんと一言呟いた。
急に部屋に灯りがともる。
眩しさに私は、思わず目を細めた。
ドアの脇に立つのは。
「…貴方は…っ…」
意外にも、幾度か目にしたことのある姿だった。
線の細い、華奢な骨格。
肩口まで綺麗に伸ばされた茶色い髪は、さらさらと電灯に透ける。
どこか笑みを湛えたような口許は、少し低い優しい声で語りかけてくれる。
―筈だった。
『コーヒー1点、120円になります。袋にお入れしますか?』
『そのままで良いです。』
『丁度頂きます、ありがとうございました。』
彼と交した会話の全て。
この春から私がバイトを始めたコンビニで。
毎晩決まって、同じコーヒーを買っていく。
袋はいらない、お会計はきっちり120円。
きっと几帳面な人なんだと思っていた。
毎晩現れる彼の姿を、少しだけ心待ちにしていた。
そんな彼が、どうしてここに。
「…どういうつもりですか。」
唖然とした私の言葉に、彼は困ったように笑った。
「別に君のこと、傷付けたり襲ったりしたい訳じゃないんだ。」
ただ、こうする以外に方法が思い付かなかった。
その言葉に、瞬間ぞっとする。
だけど、迷ってばかりもいられない。
「…これ外して下さい。」
鎖に縛られた腕を差しのべると、彼は頷いて近寄って来た。
ベッドの上で身を固くして身構えていたが、彼はあっさりと手足の手錠の鍵を外してくれた。
きつく絞められていたせいか、血流の止まってしまった手足は痺れていて言うことを効かない。
そろそろと手首を擦りながら、私は彼を睨んだ。
「…帰らせて下さい。」
意味は分からないけれど、とにかく早く此処から逃げたかった。
しかし、彼は小さく首を横に振った。
「それは出来ない。君には、ここにいて貰わないと困るんだ。」
「ここにいるって…どのくらいですか。」
「君が、俺のことを好きになってくれるまで。」私は驚いて目を大きく見開いた。
彼の言っている言葉が理解できない。
「…そんなことある訳ないでしょう?!」
思わず叫んだ言葉に、彼は静かに目を伏せた。
ベッドの端に浅く腰かける。
「俺、こう見えてもバンドやっててさ。結構そっちの世界じゃ有名だったりするんだ。
俺達と関係持ちたくて寄って来る女もいるし、それを俺達も利用してバランス取れてたんだけど。」
一つ、大きな溜め息を吐いた。
「何か、もう疲れた。」
外した手錠をくるくると指先でもてあそびながら、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「結局寄って来る奴らは、バンドマンとしての俺しか見てなくてさ。
本当の人間としての部分で好きになってくれる奴なんていない。
そういうの、もう嫌だ。」
すっと視線を上げると、彼は私の目を見つめた。
「俺が何で毎晩、君のいるコンビニに通ってたか分かる?
君に会いたかったからだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。
「…だったら…何でこんなことっ…」
私だって、毎日決まって訪れる貴方をいつの間にか待つようになっていたのに。
こんなことしなくたって、貴方と同じ気持ちになるのは時間の問題だったのに。
そう思うと、哀しさと情けなさで涙が溢れそうになった。
「…泣かないでよ。」
彼は手を伸ばして、私の目尻に浮かんだ涙を拭おうとした。
「…触らないでっ…!!」
私は力を振り絞って、彼の手を払った。
「…あんたなんかに触られたくないっ…」
私はシーツを握り締めて、涙を堪えながらうつむくことしか出来なかった。
「コンビニの店員と客の関係のままじゃ嫌だった。
だけど君に俺がバンドマンだって知れたら、そこで関係が変わってしまう。
俺はただ、純粋な気持ちの愛が欲しかった。
どんな手段使っても、それを手に入れたいんだ。」
彼は、もう一度小さく息を吐いた。
「…ストックホルム症候群って知ってる?」
私は顔を上げなかった。
「人間ってさ、不思議な習性があってね。敵味方に関わらず、
長く一緒にいると親しみを覚えて感情移入しちゃうんだって。」
その言葉に、不穏なものを感じる。
「これは監禁じゃない。
ただ、君に俺を好きになってもらうための手段なんだ。」
「…おかしいよ、そんなの!」
私は叫んだ。
目の前の相手に向かって。
「あんたが何を言っても、これは監禁以外の何物でもないのよ?!
そんなことした相手をどうやって好きになれって言うの!!」
叫びながら、いつの間にか私は本格的に泣き出していた。
「…帰してよっ…私を帰して…っ…」
まだ鈍く痺れの残る腕を振り上げて、彼の腕を叩く。
「…ごめんね。」
彼は悲しそうな瞳で、そう呟いた。
「でもここから出してあげることは出来ないんだ。」
君がここから出る時は。
俺を心から愛してくれた時だから。
「君の体が目的なんじゃない。
だから、俺は君と心が結ばれるまで、絶対に君に手を出さないから。」
彼は立ち上がると、ベッドサイドに手をついて私の顔を覗き込んだ。
「怖がらないで。何もしないよ。」
嫌がって顔を背ける私の肩を掴んで、無理に自分に向ける。
汗と涙で顔に張り付いた髪を優しく払うと、薄く微笑んだ。
「やっと君とこうして向き合えた。」
私は目を閉じた。
こんな時まで、綺麗な彼の微笑みは変わらなくて。
それが悔しかった。
「君のこと、もっと知りたい。そして、俺のことも知って欲しいんだ。」
好きになって、と懇願するような言葉に、私はまた泣きそうになった。
瞬間、きつく抱き締められた。
彼は何も言わずに体を離すと、静かに部屋を出ていった。
鍵の掛る音が、重く部屋に響き渡る。
「…誰があんたなんか好きになるもんか…」
歯を食い縛って、泣くのを堪えた。
彼の去ったドアを睨みつけて、自分に言い聞かせるように呟く。
「…あんたなんか大っ嫌い…」