木曽義高と大姫について



●大姫と木曾義高って誰のこと?●


このページではサイトのメインのひとつである大姫と義高について紹介したいと思います。
紹介、なんてえらそうですが、私も難しいことはいまいちよくわかってないです。
そんな私の書いたものです。難しくもなんともありません。
時間があって、よろしかったら、ちらりと読んでいって頂けると嬉しいです。
歴史にあんまり詳しくない方(管理人も含まれます!)でもわかりやすいページであればいいなと思います。


大姫と義高、二人は時代区分で言えば鎌倉時代の人です。
大姫は日本に初めての武家政権を確立した、『イイクニ作ろう鎌倉幕府』で知られる源頼朝の長女です。
長女であり、頼朝と北条政子の一番目の子です。
義高は木曾義高、の名前からもわかるように木曾義仲の長男です。
母親にあたる女性には巴御前か山吹姫か…など、
諸説があり、誰かははっきりと断言出来ないようです。
清水冠者の愛称があります。



●大姫と義高のお話。●


まだ頼朝が鎌倉に幕府を立てる前、つまり源平時代のことです。
大姫の父、頼朝と義高の父の義仲は父同士が兄弟、つまり従兄弟同士です。
しかし二人は仲が良くありません。源氏一族内での勢力争いが二人の間では起きていたからです。
頼朝よりも先に京へと上り、平家を討とう、そう思ったいた義仲ですが、
そんなことは自らを源氏の嫡流=源氏の棟梁とする頼朝は許しませんでした。


頼朝は義仲に嫡男の義高を渡せ、と言って来ます。
頼朝にはその頃、6歳の娘、大姫がいました。その大姫の婿に義高を、と言ってきたのです。
しかし、これは大姫の婿という名の人質でした。
義高を差し出さなければ、鎌倉と木曾の戦になる、そんなところまで来てしまっていたのです。
なくなく義仲は義高を鎌倉に差し出すことを決断しました。このとき義高は11歳でした。


義高にはいつも一緒に遊んでいた同い年の海野小太郎幸氏という友人がいました。
義高は彼を伴って、鎌倉へ向かうことを決めます。



鎌倉では大姫と大姫の母・北条政子が二人を歓迎したといいます。
大姫はどちらかと言うと病弱な方で、幼い頃から一緒に遊んでくれる友達もいなかったので、
義高が鎌倉に来てからは、四六時中そばにいたのではと思います。
二人は幼いながらもとても仲が良かったと言われています。



ところが義高の父・義仲は、京に上洛するも、しだいに後白河法皇に疎まれるようになってしまい、
ついに後白河法皇は鎌倉の頼朝に義仲追討の院宣を出します。
頼朝は義仲の軍を弟・義経の軍をもって追い詰め、現在の滋賀県、粟津の松原という
ところで義仲を討ち取ります。





さて、頼朝は義高の父・義仲を討ちました。つまり、義高にとっては、頼朝は父の仇になるわけです。
頼朝はそれを恐れました。今は11歳の幼い少年いえど、成人すれば必ず自分に刃を向けるだろう、と。
その前になんとしても義高を亡き者にする必要が頼朝にはあったのです。



「義高を討つ。」
これを聞いて頼朝の妻・政子は彼に抗議します。

それが世のならいだとしても、あんな幼いものを…むごすぎます。
それに、義高を慕っている大姫はどうするのですか?

と、しかし政子の抗議もむなしく、頼朝は考えを変えようとはしませんでした。



そこで政子は義高をお参りに行く女房たちの中に女装させてまぜ、そしてそこから
抜け出して逃げさせる、という計画をたてます。


このとき、木曾から一緒に来た海野小太郎は義高の不在を周りに知られないために、
義高のフリをして部屋ですごろくをすることにしました。
気づかれるまでの間に少しでも遠くに義高が逃げられるように、小太郎はそう考えたのでしょう。
小太郎は義高の脱走に伴することをしませんでした。



しかし、小太郎はすぐに義高でないことがばれ、追っ手がすぐに各地へと送られました。
そして、義高脱走から四日後の四月二十六日、埼玉県の入間川の河原で
追っ手に討たれてしまいます。



これをどこからか漏れ聞いた大姫はショックでそれ以後水ものどを通らなくなり、
義高への想いを貫き続け、わずか二十歳の若さでこの世を去りました。






いかがでしたでしょうか? 少しだけ二人についてご理解頂けたでしょうか?
出来る限りわかりやすくするために噛み砕いたつもりです。
大筋の説明なので、吾妻鏡を参考にしました。
言ってることが違う!などありましたら教えて頂けると嬉しいです。

それでは、ここまでありがとうございました。
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