千年桜花



 離邸の浴室は大理石で造らせた、斎宮自慢の特注品らしい。
 らしいというのは実際そこを使ったことがないからで――もちろん見たことは何度もあったが――使い心地だけは試してみないとわからない。
 無論、店主自慢の品であるなら、使い心地もいいのだろうけど。
 浴室のドアに背を預け、シャワーの音をぼんやりと聞きながら、常夏はタンブラーを傾けていた。中身は斎宮のところからくすねてきたブランデーだ。
 勤務時間外に無償でこんな仕事をさせられているのだから、このくらい容認してもらわないと割りに合わない。
 ちり、と喉咽を焼くアルコールの感覚は結構好きだ。
 というか、ここで働くようになって慣れた、と言うべきだろうか。
 どちらにしろ、ちょっといい気分にさせてくれる酒は嫌いではない。
「つかさーあ」
 少し声をあげてドアの向こうの浮舟に呼びかける。
「おまえも嫌なら嫌って言えば? じゃなきゃ時間外労働料金取るとか」 
「別に、嫌々やってるわけじゃないから。お金が欲しいわけでもないし」
 斎宮が夜伽に浮舟を呼ぶのは、何も今に始まったことではない。
 それはわりとよく行われることで、男娼は店主である斎宮のものなのだから彼の自由にする権利はあるのだけれど、毎度毎度翌朝には常夏を呼びつけていろいろ命令してくれるのが非常にありがたくない。
 夜の仕事で睡眠不足な上、本来なら自分のやるべきではない仕事までも押しつけられるのは、できることなら文句を言ってやりたいところなのだが、相手が相手なのと、常夏自身浮舟と仲がいいので、今のところは黙っている。
 どうやら斎宮も、常夏の浮舟と仲がいいことを知っていて呼びつけているらしいので、その点では少し嬉しかったりもするのだが。
「……嫌じゃないんなら、いいけど」
 会話が続かなくなったのが居たたまれず、再びブランデーを煽る。
 熱いものが喉咽を焼いて、そしてまた静かになった。
「さっきの子」
「あ?」
 シャワーの音の合間にぽつりと浮舟の声が聞こえ、常夏は短い返事で先を促す。
「見た? 純血の、結構可愛かった」 
「あー……名前なんつったっけ。おまえがタイミング悪く出てくるから聞き逃したじゃねーか」 
「そうなの?」 
 浮舟が悪気のない調子で言うものだから、怒る気も失せてしまう。 
 無論、怒る気も毛頭なかったのだが。
 まだ幼さの残る少年の顔が脳裏に浮かぶ。
 あのくらいの年で純血児というのは本当に珍しいことだ。
 戦争のために激減した人口をどうにかしなければという人々の本能と、戦後の荒廃した心理とが相俟って、他国の人間とでさえ交わることを誰もが是としたのがほんの十数年前。
 それを否定する人はいなかったし、そんな余裕もなかった。
 物資に関しては各国政府の立ち直りが早かったことが幸いし、あれだけの戦争をした後にしてはよい方だと思われるくらいの物も金もあったため、育児についての不安材料はそれほど多くはなかった。
 そうなれば、子供は多いに越したことはない。 
 人口の問題的にも、人手の問題的にも。
 必然的に、混血児の子供は増え、純血児の子供は減っていった。
 だから今の時代、純血児の子供は本当に珍しがられる。
 だが、地方では珍しがられてそこで終わりだろうけれど、遊里では違う。
 商品価値がはるかに高いのだ。 
 だから常夏はさっき言ったのだ、「いい拾いモン」だと。
「で、あいつがどうしたって?」
「うん、そうだね……可愛いなあと思って」
「それだけ?」 
「それだけ、かな」
 可愛いだけの子供ならこの店にだって腐るほどいるじゃねーか。 
 言いかけて、止める。
 言ったってきっと無駄だろうから。
 シャワーの音が止み、間もなくドアが開いた。
 ぼんやりとドアに背を預けたままだった常夏は、危うく後ろに転びそうになったが、浮舟の「ごめんね」の前に怒る気も霧散した。
 というか、彼相手では「怒る」という行為が意味のないもののように思えてくるのだ。
 不思議な男である。
「さっさと拭けよ。おまえが風邪ひいたら俺が怒られる」
 空になったタンブラーを置いてタオルを取ると、それを目敏く見つけた浮舟が眉を顰めた。
「またお酒?」
「……おまえに言われたくない」
 細い身体を少々乱暴に拭いてやりながら、常夏はため息をつく。 
 仕事で呑む機会が増えるから、遊里で客の相手をする者はいつの間にか酒に慣れているのだ。
 いや、慣らされたといったほうが正しいかもしれない。
 ともあれ、殊に浮舟はこの可憐な極上の容姿を裏切って、酒には篦棒に強い。 
 何度も一緒に酒を呑んだことはあるのだが、常夏でさえ遠慮する強い酒を素面の時のように呑んでいるその姿は、驚きを通り越して逆に気持ち悪い。
 この仕事をするにあたって酒に強いことは何かと便利なのだが、強すぎるのも困りものだ。
 何せ、自分が酔い潰れた後も向こうは酒を強請るのだから。
 なおざりに身体を拭いてやった後、適当に襦袢を着せてやる。
 そのいい加減具合を見かねたのか、浮舟は自分でやると言い出し、てきぱきと気付けを済ませてしまった。
 首筋の赤い痕は隠しようがないが、それはこの際見なかったことにしておく。
 そもそも、ここではそういうことに誰もが無関心だから差し障りもないのだけれど、やはり見てしまうと人間として多少恥ずかしくもあるのだ。
 タンブラーをばれないように元通りにして、2人は離邸を出る。
 だいぶ太陽が高い位置にあった。
 もうとっくに正午は過ぎているだろう。
 真っ直ぐに差してくる光が眩しいのか、立ち止まってしまった浮舟の手を引いて、常夏はゆっくりと歩き出した。
「あー、腹減ったー」
 意識してしまうと尚更そうと感じられるものだ。
 精一杯自己主張を始めた腹の虫を浮舟に笑われ、常夏はむっとして彼を睨んだ。
「しょうがないだろっ、おまえのせいで昼飯食ってねーんだから」
「そうか、それは悪いことをした」
 そうとは露ほども思っていないくせに、しゃあしゃあと言ってのけた浮舟が、すっと目を細めて、
「――化けるよ」
「え?」
「あの子。絶対、化ける」
 いつになく真剣な面持ちの浮舟に、常夏はくくっと笑って、
「根拠は?」
 そう問うた。すると、
「勘」
 短い答えが返ってくる。
「そう思っちゃったんだもん。しょうがないよね」
 常夏にはわかっていた。
 彼の勘はよく当たる。
 そして今回も。
 常夏自身、あの名も知らぬ少年が将来大物になるだろうことは、容易に想像がついた。
 純血児であることを差し引いても、彼はとても整った容貌をしていたし、あのまま成長すればおそらくは、ゆくゆくはこの店を背負って立つこともできるようになるかもしれない。
 桜舞う中、小さな強い期待が2人の胸の内だけにそっと花開いた。




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