藥草取

泉鏡花


  日光掩蔽につくわうおんぺい
   地上清涼ちじやうせいりやう
   靉靆垂布あいたいずいふ
   如可承攬によかしやうらん

  其雨普等ごうぶとう
   四方倶下しほうぐげ
   流樹無量りうじゆむりやう
   率土充洽そつどじうがふ

  山川險谷さんせんけんこく
   幽隧所生いうすゐしよじやう
   卉木藥艸きぼくやくさう
   大小諸樹だいせうしよじゆ

「もしはゞかりながらお布施ふせまをしませう。」
 背後うしろからやさしいこゑに、醫王いわうざん半腹はんぷく樹木じうもく鬱葱うつさうたるなかでゝ、不圖ふとけたやうに、空澄そらすみ、氣清ききよく、ときしもなつはじめを、秋見あきみひるつきごとく、前途ゆくてはるかなる高峰たかねうへ日輪にちりんあふいだ高坂かうさかは、愕然がくぜんとして振返ふりかへつた。

 ひとこゑき、姿すがたようとは、ゆめにもおもはぬまで、とほさとはなれて、はや山深やまふかはひつてたのに、呼懸よびかけたのはをんなであつた。けれども、高坂かうさか一見いつけんして、たゞち何等なんら害心がいしんものであることをみとた。

 をんな片手かたてをがみに、しろ指尖ゆびさきくちびるにあてゝ、俯向うつむいてきやうきつゝ、布施ふせをしようとふのであるから、
いやわし出家しゆつけぢやありません。」
 とこともなげに辭退じたいしながら、立停たちどまつて、をんなゆきのやうな耳許みゝもとから、下膨しもぶくれのほゝけて、やはらか に、淺葱あさぎひもむすんだのが、つゆ朝顔あさがほいろ宿やどして、加賀かゞかさといふ、ふちふかいのでかくした、には花籠はなかごあし脚絆きやはん身輕みがる扮装いでたつたが、艶麗あでやか姿すがたながめた。

 彼方かなたかさしたから見透みすかすがごとくにして、
「これは失禮しつれいなことをまをしました。お姿すがたちつともうらしくはございませんが、結構けつこう御經おきやうをおみなさいますから、わたくし は、あの、出家しゆつけではございませんでも、修行しゆぎやう しやでいらつしやいませうとぞんじまして。」

 背廣せびろふくで、足拵あしごしらへして、ぼう眞深まぶかに、風呂敷ふろしきづつみちひさく西行さいぎやう 背負じよひといふのにしてる。かれ光行みつゆきとて、醫科いか大学だいがくの、学生がくせいである。
 ときに、妙法みようほう 蓮華經れんげきやう薬草諭品やくそうゆほんだいなかばひらいたのをひだりたなそこさゝげてたが、右手みぎていた力杖ステツキ小脇こわき掻上かいあげ、
「そりやまあ、修行しゆぎやう しや修行しゆぎやう しやだが、いま全然まるで素人しろうとで、奈何どうして布施ふせいたゞくやうなものぢやない。
 讀方よみかただつて、なんだ、大概たいがい大學だいがく朱熹しゆき章句しやうくくんだから、たふと御經おきやう勿體もつたいないが、やまにはくすりくさおほいから、所為せゐらん。ふもとからうやつて一ばかりもたかとおもふと、かぜ清々すが/\しいくすりがして、なんとなくむから、心願しんぐわんがあつて近頃ちかごろからおぼえたのを、となへながら歩行あるいてるんだ。」

 打明うちあけるのが、此際このさい自他じたためおもつたから、高坂かうさかしたしくかたつて、さて

ねえさん、おまへさんはふもとむらにでもんでゐるひとなんか。」
「はい、二股ふたまたむらでございます。」
「あゝあの、越中ゑつちう礪波となみかよ街道かいだうで、此處こゝみちわかれる、まぐるしいほどうまとほる、彼處あすこだね。」
やうでございます。みちわるうございまして、くるまとほりませんものですから、すみでもたきゞでも、のこらずうまけてしますのでございます。
 それにちやう御山みやまいしもんのやうにつてります、戸室とむろぐちからいし切出きりだしますのを、皆馬みなうまはこびますから、一人ひとりで五ひききますのでございますよ。」

「それではふもとからたんだね、たつた ひとり。‥‥」
 しづかうつして高坂かうさかは、さら又女またをんなかほた。
「はい、一人ひとりでございます、して此方こつちまゐりますまで、お姿すがたましたのは、貴方あなたばかりでございますよ。」
 いかにもといふ面色おもゝちして、
わし矢張やはりうさ、半里はんりばかりもあとだつた、途中とちゆう年寄としよつた樵夫きこりつて、みちいたほかにはおまへさんきり
 奈何どうしてつてかへるまで、ひと一人ひとりようとはおもはなかつた。」

 邊唯あたりたゞなだらかな蒼海原あをうなばらおきたやうな一面いちめんくさみまはしながら、
「や、ものをつてもひとひとこだまひゞくぞ、さびしいところへ、くおまへさん一人ひとりたね。」

 をんなちゝうへ右左みぎひだり幅廣はばひろ引掛ひつかけた桃色もゝいろひも兩手りやうてはさんで、花籃はなかご揺直ゆりなほし、
貴方あなた樵夫きこりしうにおたずねなすつてうございました。そんなにけはしいさかではございませんが、ちつともひとかよひませんから、まことにくいのでございます。」

おくれないやまなかはひるのに、目標めじるしいしばかりぢやわからんではないかね。
 それも、南北みなみきた何方どちら醫王いわう山道ざんみちとでもりつけてあればしもだけれど、たゞ河原かはらころがつてゐる、ごろたいしおほきいやうな、背後うしろからくさしたほそみちがあるんだもの、一寸ちよいと間違まちがへようものなら、半年はんとし經歴へめぐつてもいたゞきにはかれないと、樵夫きこりつたんだが、全體ぜんたいなんだつて、そんなにかくしてやまだらう。まつたいしうらよりほかに、何處どこみちはないのたらうか。」

「ございませんとも、路筋みちすぢさへ御存ごぞんじでらつしやれば、はなれましたさびしさはかりで、けだもの可恐こはいのはりませんが、一足ひとあしでも間違まちがへて御覧ごらんなさいまし、何千なんぜんぢやうともれぬたにで、行留ゆきどまるりになりますやら、斷崖きりきし突當つきあたりますやら、ながれいはびましたり、大木たいぼくたふれたのでさきふさがつたり、其間そのあいだには草樹くさきおほいほど、毒蟲どくむしもむら/\して、甚麼どんな難儀なんぎでございませう。
 もとかえるか、倶利伽羅くりからたうげ出抜でぬけますれば、無事ぶじ何方どちらくにかへられます。それでなくつて、無理むりさきまゐりますと、終局しまひにはくさ一條ひとすぢえません燒山やけやまつて、餓死がしをするさうでございます。
 本當ほんたう貴方あなたがおつしやいますとほり、樵夫きこりがおをしまをしましたいしは、飛騨ひだまでも末廣すえひろがりの、醫王いわう要石かなめいしまをしまして、一踏外ふみはづしますと、それこそみちがばら/\になつてしまひますよ。」

 だたる北國ほつこく秘密ひみつやまもこそとおもつたけれども、
しか一體いつたい醫王いわうといふほど、此處こゝ藥草やくさうれるのに、何故なぜ世間せけんとはへだゝつて、行通ゆきかよひがないのだらう。」
「それは、あのうけたまは りますと、むかしから領主りやうしゆ御禁おとのやまで、滅多めつたひとをおれなさらなかつた所為せゐなんでございますつて。領主りやうしゆばかりでもござんせん。結構けつこう御藥おくすりれます場所ばしよは、また守護しゆご神々かみ/゛\佛様ほとけさまも、出入ではひりをおあそばすのでございませうとぞんじます。」

 たとへば仙境せんきよう異靈いれいあつて、ほしいまゝひと藥草やくさうことゆるさずといふがごときこえたので、これすくなからずこゝろかゝつた。

「それではなにか、わたしなんぞがはひつてつて、ほしくさつてかへつてはわるいのか。」
 と高坂かうさかやゝ氣色けしきばんだが、悚然ぞつ肌寒はださむくなつて、おもはずくちうちで、


  慧雲合潤ゑうんぐわんじゆう
 電光晃耀でんくわう/\やく
  雷聲遠震らいじやうをんしん
  令衆悦豫れいじゆうえつよ

 日光掩蔽につくわうえんぺい
   地上清涼ちじやうせいりやう 
  靉靆垂布あいたいすいふ
  如可承攬によかしようらん








いゝえやまさへおあらしなさいませねば、誰方どなたがおいでなさいましても、大事だいじないさうでございます。くすりくさもあります。うえは、どくくさいことはございません。無暗むやみものりますと、どんな間違まちがひにならうもれませんから、むかしから禁札きんさつつてあるのでございませう。
 貴方あなたは、うして御經おきやうをおあそばすくらゐ、縦令たとひやまれてもちつともお氣遣きづかひことはございますまいとぞんじます。」

 ひかけて又近またちかづき、
「あのやうなら、貴方あなたはおくすりになるくさりにおいでなさるのでござんすかい。」
少々せう/\無理むりねがひですがね、身内みうち病人びやうにんがあつて、とて醫者いしやくすりではなほらんにきまつたですから、醫王いわうざんでなくつてほかい、わたし心當こゝろあたり藥草やくさうりにきたたんだが、なにねえさんは見懸みかけたところはなでもみにあがるんですか。」

御覧ごらんとほりはなりますものでござんす。二日ふつかき、三日置かおきまゐつて、おやまはないたゞいては、さとつてあきなひます、ちよう唯今ただいま種々いろ/\花盛はなざかり

 千蛇せんじやいけまをしまして、いたゞきうみのやうなおほきいけがございます。して山路やまぢ何處どこにも清水しみづなぞながれてはりません。其代そのかはりあつとき咽喉のどかわきますと、あをちひさはなきます、日蔭ひかげくさつて、しるみますと、それはう、つめたみづ一斗いつとばかりもみましたやうにさむうなります。それいとしのげませんほど、みづすくなところですから、菖蒲あやめ杜若かきつばた河骨かうほねはござんせんが、躑躅つゝじ山吹やまぶきも、あの、牡丹ぼたん芍藥しやくやくも、きくはなも、桔梗きゝようも、女郎花をみなへしでも、みんなしよひらいてますよ、の六ぐわつから八ぐわつすゑ時分じぶんまで。牡丹ぼたんだの、芍藥しやくやく だの、結構けつこうはなれますから、たんとお鳥目てうもくいたゞけます。まあ、どんなに綺麗きれいでございませう。

 して貴方あなた、おのぞみくさをおあそはすお心當こゝろあたりへんでござんすえ。」
 とかさながら差覗さしのぞくやうにしてしたしくく、ときすゞしがちらりとえた。

 高坂かうさかなんとなく、物語ものがたりなかなるひとを、幽境ゆうきよう仙家せんかみちび牧童ぼくたうなどにおもひがしたので、ことばおのづから慇懃いんぎんに、
わたし其處そこくつもりです。四はな一時いつときく、なんといふところでせうな。」
「はい、美女びじよはらまをします。」
「びぢよがはら?」
「あの、うつくしいをんなきますつて。」

 をんな俯何うつむいてぢたるいろあり、ものつゝましげに微笑ほゝゑ様子やうす
 可懐なつかしさに振返ふりかへると、
「あれ。」とそでなゝめに、たもとつて打傾うちかたむき、
「あれ、まあ、御覧ごらんなさいまし。」

 草染くさぞめひだりそでに、はら/\と五片いつひら三片みひらくれなゐてんじたのは、山鳥やまどり抜羽ぬけはか、あらず、てふか、あらず、蜘蛛くもか、あらず、さくらはなこぼれたのである。

奈何どうでございませう、の二三ケげつあひだは、何處どこからともなく、うして、ちら/\ちら/\えずつてまゐります。それでも何處どこさくらがあるかわかりません。美女びじよはらきますと、十里じふりみなみ能登のとみさき七里しちりきた越中ゑつちゆう 立山たてやま背後うしろ加賀かゞ見晴みはらせまして、もう此節このせつは、かすみきりもかゝりませんのに、見紛みまがふやうなそれらしいはなこずゑもござんせぬが、大方おほかた花片はなびらは、うるさ町方まちかたからけてて、あそんでるのでございませう。それとも那裏あつち這裏こつちやまなかなにかの御使おつかひあるいてるのかもれません。」
 とをんなたかあふぐにれ、高坂かうさかむぐらなか伸上のびあがつた。くさみどりふかくなつて、さかさまくもうつるか、みなそこのやうなてんいろ神靈しんれい秘密ひみつめて、薄紫うすむらさきるばかり。

美女びじよはらまでのくらゐあるね、れないうちかれるでせうか。」
いゝえさくらつてまゐりますから、ぢきでございます。わたし其處そこまで、おともいたしますが、今日きようこそ貴方あなたのやうなおつれがございますけれど、平時いつも一人ひとりまゐりますから、一杯いつぱいさとまでかへるのでございます。」

一杯いつぱい?」とおもひもらぬさま

甚麼どんな又遠またとほとこのやうに、樵夫きこりがおをしまをしたのでござんすえ。」
なに樵夫きこりくまでもないです。わたし心覺こゝろおぼちやんとある。すべやまなかを二も三歩行あるかなけれやならないですな。
 もつとのぼりは大抵たいていのくらゐと、そりやかねいてはるんですが、一杯いつぱいだのぢきだの、什麼そんなたやすかれるところとはおもはない。
 御覧ごらんなさい、うやつて、五體ごたい滿足まんぞくなはふまでもない、たにへもちなけりや、いはにもつまづかず、衣物きものほころびれようぢやなし、生爪なまづめ一つはがしやしない。
 支度したくたつてもひもじおもひもせず、あをはなくささがさなけりやならんほどかわおもひをるでもなし、勿論もちろんさき甚麼どんな難儀なんぎはうもれんが、それだつて、はなりにさとから日歸ひがへりをするとふ、ねえさんと一しよくんだ、きふれてやみにならうともおもはれないが、まつた是限これぎりで、一足ひとあしづゝさへすりや、美女びじよはらになりますか。」

「えゝ、わけはございません、貴方あなた、そんなに可恐おそろしい ところ御存ごぞんじで、うへ、おくすりりにらしつたのでございますか。」

 言下げんかに、
實際じつさい命懸いのちがけました。」とおもつてこたへると、をんなはしめやかに、
「それでは、よく/\のことでおあんなさいませうねえ。
 でもなにもそんなむづかしい御山おやまではありません。ただ此處こゝ靈山れいざんとかまをことさけこぼしたり、たけかわ打棄うつちやつたりするところではないのでございます。まあ、難有ありがたいおてらには、おみや境内けいだいうへがた御門ごもんうちのやうな、あるけばいし一つありませんでも、なんとなくつゝしみませんとりませんばかりなのでございます。して貴方あなたは、美女びじよはらにお心覺こゝろおぼえのくさがあつて、其處そこまでおあそばすに、二日ふつか三日みつかもおかゝりなさらねばなりませんやうながすると仰有おつしやいますが、何時いつか一あがあそはしたことがございますか。」

一度いちどあるです。」
「まあ。」
たしか美女びじよはらそれでせうな、なんでも躑躅つゝじ椿つばききくふじも、はら一面いちめんいてたとおぼえてます。けれども土地とちどころぢやない、方角はうがくさへ、何處どこなんだか全然まるで夢中むちゆう
 いまだつて猶且やつぱりわたし同一おなじくにものなんですが、其時そのとき何為なぜいえて一月餘つきあまりやまはひつて、彼是かれこれなんでもうまれてからぬまでの半分はんぶん彷徨さまよつて、漸々やう/\其處そこたやうにおもふですが。」

 高坂かうさかかたりつゝも、長途ちやうとくるしみ、雨露あめつゆさらされた當時たうじおもおこすにけ、いまも、氣弱きよわり、心疲しんつかれて、こゝ深山みやまちり一つ、こゝろかゝらぬをりながら、猶且なほか垂々たら/\そびらあせ

 いとのやうな一條ひとすぢみち背後うしろこゑはこぶのに、ちからえうした所為せゐもあり、藥王やくわうひんむねいだき、つえつたぼうぐと、きよひたひぬぐふのであつた。

 それさとく、
「もし、案内あんないがてら、あの、わたしがおさきまゐりませう。どうぞ、そのはうがおはなしうけたまは りようございますから。」
 一およばず、草鞋わらぢげて、みちひだり片避かたよけた、あしそこへ、くさやはらか に、葉末はずゑはぎかくしたが、すそいばらく、天地てんちかんに、むし羽音はおときこえぬ。



 




御免ごめんなさいまし。」
 と花賣はなうりは、たもとめた花片はなびらをしやはら/\、そでむね引合ひきあはせ、ほそくして、高坂かうさかからだよこ擦抜すりぬけたその片足かたあしむぐらなかみちばかりせまいのである。

 五しやくばかりまへにすらりと、立直たちなほ後姿うしろすがたもすそめたくさしげり、ちかみどりに、とほ淺黄あさぎに、いろ隈取くまどほかに、一ぼくのありてながかげたふすにあらず。

 背後うしろからこゑけ、
大分だいぶん草深くさぶかくなりますな。」
段々だん/\いたゞきちかいんですよ。やがてはえ人丈ひとだけになつて、わたし姿すがたえませんやうになりますと、それくゞつてますところが、もうはなはらでございます。」  と撫肩なでかたやさしいうへへ、かさ紐弛ひもゆるく、べにのやうなくちびる をつけて、横顔よこがほ振向ふりむいたが、すゞしい目許めもとゑみうかべて、
奈何どうして貴方あなた那様そんなにまあから天竺てんぢくとやらへでもおあそばすやうにとほところとおおもひなさるのでございませう。」

 高坂かうさかなるつえあらいて、つちさわがすことさへせず、つゝしんであとつゞき、
ひさしい以前いぜんです。一たいだれでもむかしことは、とほへだゝつたやうにおもふのですから、事柄ことがらと一しよみちまでもはるかかんがへるのかもれません。さうして皆夢みんなゆめですよ。
 けれども不殘のこらず事實じじつで。
 わたし以前いぜん美女びじよはらで、藥草やくさうつたのは、もう二十ねん、十ねんが一むかし、ざつと二むかしまへになるです、九歳こゝのつとしなつ。」

「まあ、そんなにおちひさとき。」
もつと一人ひとりぢやなかつたです。ひとれられてたですが、はじいへまよつてときは、東西とうざいわきまへぬ、つて九歳こゝのつ小兒こどもばかり。
 ひと高坂かうさかみいわたしですね、光坊みいばうられたのだとひました。よくふ、の、天狗てんぐさらはれたそれです。また實際じつさいうかもれんが、幼心をさなごゝろ で、自分じぶんぢや一端いつぱしおやおもつたつもりで。

 兩親ふたおやともあつたんです。母親はゝおや大病たいびやうで、あつさの取附とつゝきには醫者いしや見放みはなしたので、うかしてそれなほしたい一しんで、くすりさがしにきたたんですな。」
 高坂かうさか少時しばらくだまつた。

ふと、なにか、孝行かう/\吹聽ふいちようするやうで人聞ひとぎゝわるいですが、ねえさん、貴女あなたばかりだからはなしをする。
 いまでこそ、立派りつぱ醫者いしやもあり、病院びやうゐん出來できたたけれど、奈何どうして城下じやうかが二はうひらけてたつて、北國ほくこくやまなか醫者いしやらしい醫者いしやい。まあ/\其頃そのころ土地とちだい一といふ先生せんせいまでさじげてしまひました。打明うちあけて、ちゝわたしたちにかせるわけのものぢやない。母様おつかさん病氣きい/\わるいから、大人おとなしくろよ、くらゐにしてあつたんですが、なんとなく、ひと出入ではひりうちもの起居たちゐ舉動ふるまひ大病たいびようといふのはれる。
 それに名醫めいゝふのが、五十恰好がつこうで、天窓あたまげたくせかみくろい、いろしろい、ぞろりとした優形やさがた親仁おやじで、みやくるにも、じやがさすにも、小指こゆびそらして、三本さんぼんゆびで、横笛よこぶえくか、女郎ぢよらう煙管きせるつやうな手付てつきをする、かないやつ

 わたしがちよこ/\近處きんじよだから駈出かけだしては、藥取くすりとりくのでしたが、また藥局やくきよくといふのが、先生せんせいをひとかふ、ペろりとながかほの、ひたひからべにながれたかとおもはなさきあかおとこくすり 箪笥だんす小斗抽斗ひきだしいては、つくえうへかみならべて、調合てうごうをするですが、さじ加減かげん如何いかにもあやしい。

 相應そうおう流行はやつて、藥取くすりとりおほいから、手間てまるのがじれつたさに、始終しじうくので見覺みおぼえて、わたしその抽斗ひきだしいて五つも六つも藥局やくきよくつくえべてる、しまひには、先方せんぽうたないで、自分じぶん調合てうがふをしてつてかへりました。わたしはうが、かへつて目方めかたそろふくらゐ、大病たいびようだつてなんだつて、そんな覺束おぼつかないくすりくならうとはおもへんぢやありませんか。

 ころちゝ小立野こだつのところの、げんのある藥師やくし信心しん/゛\で、毎日まいにち參詣さんけいるので、わたし一寸ちよい々々/\れられてつたです。
 のち自分じぶんばかり、乳母うばかれておまゐりましたツけ。べつをがみやうもらないので、たゞ母親はゝおや病氣びやうきくなるやうと、あはせる、それもあそ半分はんぶん

 六ぐわつの十五にちは、わたし誕生たんじやう で、月代さかやきつて、はひつてから、紋着もんつきそでながいのをせてもらひました。
 わたしがとつては可笑をかしいでせう。すそ模様もやうの五ツもん熨斗のし派手はでな、此頃このごろきや加賀かゞぞめとかふ、きくだの、はぎだの、さくらだの、花束はなたばもんつてる、時節じせつかまはず、種々いろ/\はな染交そめまぜてあります。もつと今時いまどきそんな紋着もんつきものはない、他國たこくには勿論もちろんないですね。
 一たい醫王いわうざんに、四季しきはなが一ひらく、景勝けいしようほこために、加賀かゞばかりでめるのださうですな。
 まあ、紋着もんつきたんですね、博多はかたの一ぽん獨鈷どつこ小兒こどもおびなぞで。

 ぼうやは綺麗きれいりました。はゝ後毛おくれげ掻上かきあげて、して手水てうず使つかつて、乳母うば背後うしろから羽織はおらせた紋着もんつきとほして、むね水色みづいろしたじめをいたんだが、自分じぶんで、おびつてしめようとすると、それなりちからけて、ひざいたので、乳母うばあわてゝ確乎しつかりくと、すぐ天鵜絨びろうど括枕くゝりまくら鳩尾みぞおちおさへて、うへむねせたですよ。

 んでくだすつたれいふのに、たゞ機嫌きげんうとさへへばいと、ちゝからひつかつて、枕頭まくらもといて、其處そこへ。かほげたわたしと、まくらもたれながら、ぢつながめたはゝと、かほふと、ぼうや、なほるよとつて、なみだをはら/\、さし俯向うつむいて弱々よわ/\つたでせう。
 ちゝかたいて、そつよこかした。乳母うばが、掻巻かいまきけると、えりをかけて、むかうをいてしまひました。

 臺所だいどころから、なかから、玄關げんくわんあたりは、ばた/\ひと行交ゆきかおともつとおびをしめようとして、いお納戸なんど紋着もんつきしたじめのなりたふれたとき乳母うば大聲おほごゑひとんだです。

 やがて醫者せんせいはかますそを、ずる/\とやつてんだ。わたしには戸外おもてあそんでいと、乳母うばつたもんだから、にはからたです。いまわすれない。なんともひやうのない、かなしい心細こゝろぼそおもひがましたな。」

 花賣はなうり聲細こゑほそく、
道理もつともでございますねえ。して母様おつかさん其後そのごくおりなさいましたの。」
「おきなさい、それからです。
 小兒こどもせめほとけそですがらうとおもつたでせう。小立野こだつのふは場末ばすゑです。ちひさなやまくらゐはある高臺たかだいくさしげつた空地あきち澤山たくさんな、人通ひとどぼりのところを、藥師やくしだうまゐつたですが。

 あさうち月代さかやき沐浴ゆあみなんかて、いへたのは正午ひるだつたけれども、何時いつごろ藥師やくしだう參詣さんけいして、何處どこあるいたのか、奈何どうしてたのか。
 翌朝あくるあさ小立野こだちのから、八坂はつさかひます、八段やきだくろたきちるやうな、眞暗まつくろさかりて、川端かはばたた。かはは、鈴見すずみといふむら入口いりぐちで、ながれきふだし、いろすごいです。
 はしは、あめゆきしろつちやけて、ながいのが處々ところ/゛\うろこちたかたち中弛なかだるみがして、のら/\とかゝつてはしうへ茫然ぼんやりと。

 あとかんがへてこそ、翌朝あくるあさなんですが、せつは、よる何處どこかしたかわからないほどですから、小兒こども晩方ばんがただとおもひました。醫王いわうざんいたゞき に、眞白まつしろつきたから。
 しか殘月ざんげつであつたんです。何爲なぜかとふに正午ひるごろ、づゝと上流じやうりうあやしげなわたしを、つなつかまつて、ちうつるされるやうにしてわたつたときは、かほかつとする晃々きら/\はげし日當ひあたり

 ふと、なんだか明方あけがただか晩方ばんがただか、宛然まるでゆめのやうにきこえるけれども、わたしわたつたにはまつたわたつたですよ。

 山路やまじは一にちがゝりと覺悟かくごをして、今度こんどるにはふもと一泊いつぱくしたですが、昨日きのふ丁度ちやうどぜんとき同一おなじ時刻じこく正午ひるごろです。いはみづ眞白まつしろ日當ひあたりなかを、あのわたしわたつてると、二十ねんむかしかはらず、ふなつきいはも、船出ふなでまつも、たしかおぼえがありました。
 しか九歳こゝのつしたをりは、ぢいさんの船頭せんどうふねあつかひましたつけ。 昨日きのふ唯綱たゞつな手繰たぐつて、一人ひとりしたです。乘合のりあひなにい。

 御存ごぞんじのはげしいながれで、さおいですから、つな二條ふたすぢ染物そめものをしんしばりたやうにすきなく手懸てがゝり出來できる。ふねちいさし、どう突立つゝたつて、釣下つりさがつて、互違たがひちがひけて、川幅かははゞ三十けんばかりを半時はんとき幾度いくどもはつとおもつちや、あぶなさに自然ひとりでふさぐ。けるとき、もし、あのたけびた菜種なたねはな断崕がけ巖越いはごしに、ばら/\えんでは、到底とてもこととはおもはれなかつたらうとかんがへます。

 十ほうにはひとらしいものいやうに、ふねもやつた大木たいぼくまつみき立札たてふだして、渡船わたしせんもんとある。

 はなし前後あとさきりました。
 其處そこ小兒こどもは、鈴見すゞみはしたゝずんで、前方むかうると、正面しやうめん中空なかぞらへ、ほとけてのひらひらいたやうに、五ほんゆびならんだかたち矗々すく/\つたのが戸室とむろ石山いしやまもやか、きりか、うしろつゝんで、ねんに二三れたときいと、あをあらはれてえないのが、すなは醫王いわうざんです。

 其處そこやまるくらゐは、かねていて、小兒こどもごゝろ にも方角ほうがくつてた。して迷子まひごつたか、とらられたか、れもしないのに、ちひさものは、暢氣のんきぢやありませんか。
 それがすでいきへんつてたからであらうもれんが、おなかかぬだけに一向苦かうくらず。こはれたたけ欄干らんかんつかまつて、つきかゝつたゆきなかの、あれ醫王いわうざんうちに、板橋いたばしをこと/\んで、

 むかうやまに、さるが三疋住ぴきすみやる。なか小猿こざるが、もの餞舌しやべる。なん小兒こどもども花折はなをりにくまいか。今日けふさむいになん花折はなをりに。牡丹ぼたん芍藥しやくやくきく花折はなをりに。一本折ぽんをつてはかさし、二本折ほんをつては、みのし、三えだえだれて…‥と不圖ふとうたひながら。‥‥

 なんとなくこゝろんだは、あゝ、むかうのやまから、月影つきかげてもいろくれなゐはなつてて、それを母親はゝおやかみしたら、屹度きつと病氣びやうきなほるにちがひないとことです。又母またはゝは、はなかんざし にしても似合にあふくらゐわかかつたですな。」

 高坂かうさか舊來もときはうかへりみたが、くさほかにはなにい、一歩前ぽまへ花賣はなうりをんな如何いかにもみてくやうに、俯向うつむいてくのであつた。

「そしてたしかに、それ藥師やくしのおつげであるとしんじたですね。
 さあおもつてはたてたまらない、わたけたはしつてかへして、堤防どてづたひに川上かはかみへ。

 あと又渡またわたしえなければならないみちですがね、はしからるとやま位置ありかつきはひほうかたむいて、かへつて此處こゝからふと、對岸むかうぎし行留ゆきどまりのゆきうへらしくえますから、小兒こどもごゝろつてかへしたのがちようさいはひ と、はしから渡場わたしばまであいだの、あの、岩淵いはぶちいはは、ひとへだてる醫王いわうざん一のとりでつてもい。戸室とむろ石山いしやまふもとすぐながれせまところで、かさなつた岩石がんせきだから、みち其處そこれるですものね。

 岩淵いはぶち此方こちらて、大方おほかた跣足はだしたでせう、すた/\五も十辿たどつたつもりで、正午ひるごろいたのが、鳴子なるこわたし。」









馬士まごにも、擔夫かつぎにも、畑打はたうひとにも、三にん二人ふたりくらゐづゝむら一つしては川沿かわぞひ堤防どてごとつたですが、みなたゞ立停たちどまつて、じろ/\見送みおくつたばかり、言葉ことばけるものかつたです。これ熨斗目のしめ紋着もんつき振袖ふりそでふ、田舎ゐなかめずらしい異形いぎやう扮装なりだつたから、不思議ふしぎ若殿わかどの迂潤うくわつものへないとかんがへたか、まつ晝間ぴるまきつねけた? とでもおも
つたでせう。それとも本人ほんにん逆上のぼせかへつて、なにはれてもみゝはひらなかつたのかもほからんですよ。

 渡場わたしば手前てまへで、背後うしろからはじめてめた親仁おやぢがあります。にいや、にいやとふと調子てうし
 わたし仰向おをむいてました。
 づんぐりたかい、銅色あかゞねいろ巖乘がんじよう づくりな、年配ねんぱい四十五六 、ふる單衣ひとへすそをぐいと端折はしよつて、赤脛あかずね脚絆きやはん素足すあし草鞋わらじ、くわつとまばゆいほどるのに、かさかぶらず、菅笠すげがさひもに、桐油とうゆ合羽がつぱたゝんで、ちひさくたてながつたのをゆはへて、振分ふりわけにかたげて、兩提ふたつさげ煙草たばこいれおほきいのをぶらげて、奈何云どういか、しぶ團扇うちはで、はた/\と胸毛むなげあふぎながら、てくり/\つてて、何處どこくだ。

 御山おやまはなりに、と返事へんじすると、ふんそれならばし、小父おじ同士どうしつてるべい。たゞしさきわたしを一つさねばならぬで、渡守わたしもり咎立とがめだてをすると面倒めんだうぢや、さあ、おぶされ、とうて背中せなかけたから、合羽かつぱまたぐ、あしむかうへつて、さる背負おんぶたか肩車かたぐるませたですな。

 なかこゝろく、やまはとると、戸室とむろひくつて、醫王いわうざん鮮明あざやか深翠ふかみどりかたうへからした瞰下みおろされるやうなました。位置ゐちかはつて、かは反對むかうはうえてた、成程なるほどわたしわたらねばりますまい。

 あしおさへた片手かたてうしろへ、こし兩提ふたつさげなかをちやら/\せて、爺様ぢゞさまたのんます、鎮守ちんじゆ祭禮さいれいに、たのまれた和郎わらうぢや、とふと、ふねせた老人としよりこしは、親仁おやぢ兩提ふたつさげよりもふら/\して干柿ほしがきのやうにからびたちひさなぢゞい
 やがてつなつかまつて、すがるとはやこと
 すずめ鳴子なるこわたるやう、さるこずえつたふやう、さら/\、さつと。」

 高坂かうさかおもはず足踏あしぶみをした、くさしげりがむら/\とゆらいで、花片はなびらまたもやるーー二ひらひら虚空おほぞらから。ーー

左右さいうかたむふなばた へ、ながあをからいて、眞白まつしろさつひるがへ ると、つた親仁おやぢれたもので、小兒こどもかついだまゝ仁王にわうだち

 眞蒼まつさを/RT>水底みなそこへ、くろいて、そこれず、目前めさき押被おつかぶさつた大巖おほいははらへ、ぴたりとふね吸寄すひよせられた。きし可恐おそろしみづふかい。
 巖角いはかどきざれて、これ足懸あしがゝりにして、此方こつち堤防どてあがるんですな。昨日きのふわたししたときは、だいばん危難きなんふかと、膏汗あぶらあせながして漸々やう/\すがいてあがつたですが、なにとき親仁おやぢは‥‥平氣へいきなものです。」

 高坂かうさか莞爾につこりして、
爪尖つまさきけるとさらなく、おぶさつたわたしはうかへつてふさいだばかりでした。
 さてちつ歩行あるかつせえと、きしおろしてくれました。それからはすこしづゝ次第しだいながれとほざかつて、あぜ三つばかりよこれると、今度こんど赤土あかつちの一本道ぽんみち兩側りやうがはにちらほらまつわつてところました。

 六ぐわつなかばとはつても、此邊このへんにはめずらしいひどあつだとおもひましたが、かはわたつた時分じぶんから、戸室とむろやまくもいて、處々ところ/゛\みづへ、眞黒まつくろくもつたり、きたたり。

 並木なみきまつまつとのあひだが、どんよりして、こずえる、とおもふとはや大粒おほつぶあめがばら/\、立樹たちぎを五ほんえないうちに、車軸しやぢくながはげしい驟雨ゆふだち。ちよツて/\、と獨言ひとりごとして、親仁おやぢわたしつて、そら、だいなしにるからげとふまゝにすると、おびいて、紋着もんつきいで、淺黄あさぎえりほそかゝつた襦袢じゆばんのこらず。
 小兒こどもいとけぬ全裸體まるはだか

 あめあびるやうだし、こはさはこはし、ぶる/\ふるへると、親仁おやぢが、つよいぞつよいぞ、とつて、わたし衣類いるゐを一まるげにして、懐中くわいちうふくらますと、ひもいて、かさを一文字もんじかぶつたです。
 それからみきたせていて、やがてれい桐油とうゆ合羽がつぱひらいて、わたし天窓あたまからすつぼりとばかりるほど、宛然まるで澁紙しぶがみ小兒こども小包こづゝみ

 いや! 出來できた、これならうみもぐつてもれることではい、さあ、眞直まつすぐ前途むかうせ、えい、とうて、いたたれたとおもつた、わたししりをぴたりと一つ。
 れた團扇うちはほねばかりにけました。

 怪飛けしとんだやうにつて、蹌踉よろけて土砂どしやぶりなか飛出とびだすと、くるりと合羽かつぱつゝまれて、えるはあしばかりぢやありませんか。
 亦蛙またかえるけたわ、けたわと、親仁おやぢ呵々から/\わらつたですが、もうみゝきこえず眞暗まつくらぽうなにくろやまのやうなもの打付ぶツかかつて、斛斗もんどりつて仰様あをむけざまころぶと、たきのやうなあめなかに、ひゝんとうまいなゝこゑ

 漸々やう/\ひとたすおこされると、合羽かつぱいてくれれたのは、五十ばかりのふとつたばあさん。馬士まご一人ひとり腕組うでくみをして突立つゝたつてた。かどやなぎみどりから、黒駒くろこましずくながれて、はや雲切くもぎれがして、やなぎこずゑなどは薄雲うすくもそこ蒼空あをぞらうごいてます。

 みようなものがんだ。これが豆腐とうふなら資本もとでらずぢや、それともこのまゝ熨斗のしけて、鎮守ちんじうさまをさめさつしやるかと、馬士まごてのひら吸殻すいがらをころ/\る。

 ぬしさ、うした、とばあさんがくんですが、四邊あたりをきよと/\みまはすばかり。
 何處どこから乞食こじきだよ、と又酷またひどいことをひます。もつと裸體はだか澁紙しぶかみつゝまれてたんぢや、うぢ素性すじやうらうとはおもはぬはず

 衣物きものがせた親仁おやぢはと、唯悔たゞくやしく、はうながめると、ちひさいからうまはらかしてあめあがりのまつ並木なみき青田あおたみどり用水ようすゐに、白鷺しらさぎとほぶまで、なわてがづゝと見渡みわたされて、西日にしびがほんのりあかいのに、きふ大雨おほあめ往來ゆきゝもばつたり、親仁おやぢらしい姿すがたえぬ。

 あまりことにしく/\すと、こりやひもじうてくちけぬな、商賣あきなひものぜにませるやうぢやけれど、一つ振舞ふるまうてろかいと、きたな土間どま縁臺えんだいならべた、せまツくるしいくらすみの、こけえたおけなかから、豆腐とうふ半挺はんちやう皺手しわてしろんで、そりや/\と、頬邊ぽつぺたところ突出つきだしてくれたですが、奈何どうしてこれべられますか。

 其癖そのくせはらされたやうにいてましたが、むねぱいつて、かぶりると、はて食好しよくごのみをするいぬの、とつぶやいて、ぶくりと又水またみづおとして、これや、慈悲じひけぬ餓鬼がきめ、せと、わたしむねつゝけたしわだらけのくろさ、かほうるしかためたやう。

 黒婆くろばゞどの、情無なさけなことせまいと、成程なるほど黒婆くろばゞといふのか、馬士まごなかつてはいると、かしかえせ、人足にんそくめと怒鳴どなりつたです。すると豆腐とうふおけうしろが、蜘蛛くもだらけの藤棚ふじだなで、これさかいにしてかべかき隣家となり小家こいえの、ふちに、ひざいてうづくまつてた、十ばかりも年上としうえらしいおばあさん。

 見兼みかねたか、縁側えんがわからつてり、ごつ/\ころがつた石塊いしころまたいで、藤棚ふじだなくゞつてかほしたが、柔和にうわ面相おもざしいろしろい。

 小兒こどもしゆう々々/\わたしとこへござれ、とふ。はや白媼しろうばうちかつしやい、かりくば、此處こゝうまつなぐではないと、馬士まごこし胴亂どうらん煙管きせるをぐつと突込つゝこんだ。其處そこ裸體はだかかれて、土間どますみけて、隣家となり連込つれこまれる時分じぶんには、とびいて、とほくで大勢おほせい人聲ひとごゑ祭禮まつり太鼓たいこきこえました。」

 高坂かうさか打案うちあんじ、
渡場わたしばから此方こちらは、一しやう わたしわすれないところなんだね、で今度こんどときも、さきたびを二するで、まつぽんはし一ツもこゝろをつけてたんだけれども、それらしいいへく、やなぎわからない。それにいまぢや、三里さんりばかりむかうを汽車きしや素通すどほりにしてくやうになつたから、人通ひとどほりもなし。大方おほかた馬士まごも、老人としよりも、ものぢやあるまいとおもふ、わたしなんだか人達ひとたちの、のまゝ、かげめた、ちよううへを、ねえさん。」

 花賣はなうり後姿うしろすがた のまゝ引留ひきとめられたやうになつてとまつた。
貴女あなた二人ふたり歩行あるいてるやうにおもふですがね。」
「それから奈何どうあそばした、まあおはなしなさいまし。」
 としづかまへへ。高坂かうさかおもむろに、
むすめ世話せわをするまで、わたしには衣服きものせる才覺さいかくい。あつ時節じせつぢやで、なんともかろが、ひもじからうで、これでもはつしやれつて。
 圍爐裡ゐろりはひなかに、ぶす/\とくすぶつてたのを、してくれたのは、くしした茄子なすいたんで。
 ぶく/\樺色かばいろふくれて、湯氣ゆげつてたです。
 なま豆腐とうふ手掴てづかみくらべては、勿體もつたいない料理れうりおも
つた。それにくれるのがやさしげなおばあさん。
 つちしやうふで出來できるが、むらでも初物はつものぢやとふ、それを、空腹すきばらへ三つばかり頬張ほゝばりりました。あつしる下腹したはらへ、たら/\とみたところから、一ねむりしてめると、きや/\いたして、やがくやら、くだすやら、尾籠びらうなおはなしだが七てんたうよくきてられたことと、いまでもおもふです。しかし、もうときは、いのちおやの、やさしいかれてました。にも綺麗きれいむすめで。

 ひと心地ごゝちくるしんだが、かすかひらいたときはじめて姿すがたは、つやゝかな黒髪くろかみを、おとこのやうなまげむすんで、縮緬ぢりめん襦袢じゆばん片肌かたはだいでました。つて醫王いわうざんはなりに、わたしいて、たかどのしゆ欄干らんかんのある、温泉おんせん宿やどしのんで裏口うらぐちからあさ月夜つきよに、田圃たんぼみちときは、中形ちうがた浴衣ゆかた襦子しゆすおびをしめて、かまを一ちやう手拭てぬぐひにくるんでたです。其間そのあひだに、白媼しろうばうちを。わたしひざいてときは、まげ唐輪からわのやうにつて、むねにはたまかざつて、ちやう天女てんによのやうな扮装いでたちをして、くるまを、うしかせたのにつて、わい/\と群集ぐんしゆうなかを、とほつたですが、むらものかはる/゛\たかかささしけてつたですね。

 村端むらはづれで、てらやすむと、此處こゝ支度したくへて、多勢おほぜい口々くち/゛\に、苦勞くらう苦勞くらうふのを聞棄きゝずてに、むすめは、一ひとりわかものおんぶさせたわたし一寸ちよつと頬摺ほゝずりをして、それから、石高しいだかみちさかして、にぎやかに二階屋かいやそろつたなかの、一番屋ばんやむねたかいへはひつたですが、わたし唯幽たゞかすか坤吟うめいてたばかり。もつと白姥しろうばいへに三晩寝ばんねました。うちも、むすめそとてはかえつてて、膝枕ひざまくらせて、始終しじうたかつて馬蠅うまばへを、はらつてくれたのを、げんくるしみながらおぼえてます。くるまつた天女てんによかれて、人數にんずかこまれてかよつたとき庚申こうしんだうかたはらはんで、なか姿すがたかくして、群集ぐんじゆはなれてすつくとつた、たか親仁おやぢがあつて、ぢつわたしどもをたのが、たしか衣服いふくがせたやつたけれども、小兒こどもいまくちけないほど容體ようだいわるかつたんですな。

 わたしはたゞ氣高けだか艶麗あでやかひとを、いまでもかみほとけかと、おもふけれど、あとかんがへると、うだらうと、おもはれるのは、うばむすめで、清水しみづだに温泉をんせんへ、奉公ほうこうたのを、まつりいて、むらわかものりてて八ケそん九ケそん是見これみよとわめいて歩行あるいたものでせう。むすめ不圖ふとすると、湯女ゆななどであつたかもれないです。」








「それからひと部屋へやともおもはれる、綺麗きれい座敷ざしきかされて、めるときものしいときのどかわときなみだとき何時いつむすめかほせないことかつたです。

 自分じぶんでも、もう、病氣びやうきなほつたとおもつたばんいて、てら/\ひかなが廊下らうかを、湯殿ゆどのれてつて、一しよ透通すきとほるやうな温泉いでゆぴて、いはたひらにした湯槽ゆぶねかたはらで、すつかりからだながしてから、くしいて、わたしかみやわらいてくれる二くしくしやがくし湯殿ゆどのいはうへから、廊下ろうかあかりすかして、氣高けたか横顔よこがほで、ぢつて、あゝことうつくしいかみけず、きたなむしかなかつたとひました。わたしがさして一しよくしみつめたが、自分じぶんはだも、ひとからだも、ときくらゐきよく、しろうつくしいのはことがない。

 わたしあたらしい着物きものせられ、むすめ桃色もゝいろ扱帯しごきのまゝ、又手またていて、今度こんどうら梯子ばしごから二かいあがつた。だんのぼると、取着とつゝきに一あたらしく建増たてましたとえて、ふすまがない、しろゆかへ、つきかげぱつした。兩側りやうがは部屋へやみな陰々いん/\ともしいて、しづまかへつた夜半やはんことです。

 つきだこと、まあ、とのまゝとりつて床板ゆかいたんでると、小窓こまどが一ひとつ。それにも障子しようじいので、二人ふたりのぞくと、まへいらかつゆながれて、ぎんけてはしるやう。

 つきやまはなれて、半腹はんぷくくらいが、眞珠しんじゆいたゞいたみねみづんだかあかるいので、やまは、とくと、醫王いわうざんだとひました。
 途端とたんにくわいときつねいたから、むすめ緊乎しつかわたしく。其胸そのむねひたひてゝ、わたし我知われしらず、わつといた。
 こはくはいよ、否怖いゝえこはいのではいとつて、母親はゝおや病氣びやうき次第しだい
 かういふわたつたつきながめて、いろあかかゞやはなつてかへりたいと、はじめひとならばとおもつて、打明うちあけてふと、しばらだまつてひとみゑて、わたしかほたが、月夜つきよいろ眞紅しんくはなーー屹度きつとさがしませうとつて、ーーし、し、をんなおもひで、とあといひしたですね。

 翌晩あくるばん夜更よふけてわたししますから、もとより此方こつちけてつたところぐに支度したくをして、爾時そのときおびをきりゝとめた、引掛ひつかけに、先刻さつきひましたね、手拭てぬぐひでくる/\といたかまちやう

 それから昨夜ゆうべの、つきまどからそつて、かはらやねりると、夕顔ゆふがほからんだなかへ、梯子はしごかくしてけてあつた。つたはつてにはて、うら木戸きどかぎをがらりとけてると、有明ありあけづきやますそ

 醫王いわうざんるやうにえたけれど、これ秘密ひみつやま搦手からめてで、其處そこからあがみちいですから、戸室とむろぐちまはつて、のぼつたものとえます。さあ、此處こゝからが目差めざ御山おやまふまでに、辻堂つじだう二晩ふたばんました。

 あときたたか、こは姿すがたすごものみちさえぎつてあらわるゝたびに、むすめわたし背後うしろかばうて、かま差翳さかざし、すつくつと、よろうた姫神ひめがみのやうに頼母たのもしいにつけ、くもえるやうにみちひらけてずん/\と。」

 とき高坂かうさかぬのつがごとおといて、唯見ふみると、まへつた、をんな姿すがたは、かたあたりまで草隱くさがくれれにつたが、背後うしろざまにうごかすにれて、かまみがけるたまごとく、弓形ゆみなり出没しゆつぼつして、歩行あるき/\掬切すくひきりに、刃形はなり上下じやうげうごくとともに、たけなす茅萱ちがやなかばから、およ一抱ひとかゝへづゝ、さつくとれて、なびして、かくれたつち一歩いつぽ飛々とび/\あらわれて、五しやじやくしやくづゝ、前途ゆくてかれみちびくのである。

 高坂かうさかは、悚然ぞつとしておもはずげ、かつをんなわれしたるごと伏拝ふしおがんで粛然しゆくぜんとした。

 不意ふい立停たちどまつたのを、行悩ゆきなやんだとおもつたらしい、花賣はなうりかろ見返みかえり、
貴方あなたちつとでございますよ。」
うぞ。」とつた高坂かうさか今更いまさらながら言葉ことばさへつゝしんで、
美女びじよはらいま其花そのはながありませうか。」
うもむおはなしうぞはやあとをおきかせなさいまし、してときはなはござんしたか。」
はなまつたつたんですが、何時いつうやつて美女びじよはらへおいでことだから、御存ごぞんじはないでせうか。」
まゐりましたら、ねえさんがなすつたやうに、一所いつしよにおさがまをしませう。」
「それでもわたしつきるのをちますつもり。花籠はなかごにさへ一ぱいつたら、貴女あなた一杯いつぱいかへるでせう。」
いゝえ、いつも一人ひとり往復ゆきかへり ますときは、れてなんともおもひませんでございましたけれども、なまじおつれ出來できますと、もうさびしくつて一人ひとりではかへられませんから、一所いつしよにおかへりまでおまをしませう。かはりどうぞ花籠はなかごはうはお手傳てつだくださいましな。」
「そりや、ふまでもありません。」
してまあ、甚麼どんなところにございましたえ。」
それこそゆめのやうだと、ふのだらうとおもひます。みちすがら、うやつて、かげのやうな障礙しやうげ出遇であつて、いまにもむすめまつて、わたしつてころされうと、幾度いくどおもつたかわかりませんが、黄昏たそがれおもとき美女びじよはらといふのでせう。およそちやうしほうばかりのあひだおふぎ地紙ぢがみのやうなかたちに、そらにもしたにも充滿いつぱいはなです。

 そのまゝ二人ふたりひざまづいて、むすめるやうにあはせてりました。つきると、あま容易たやすい。ついまへ芍藥しやくやくはななか花片はなびらかたちかはつて、眞紅まつかなのがたゞりん
 つて前髪まへがみ押頂おしいたゞいたときわたしつむりでながら、あまりうれしさ、むすめははゝら/\と落涙らくるいして、もうぬまで、こゝろわすれてはなりませんと、わたしつむりさせようとましたけれども、かみむすんでいのですから、其處そこむすめが、自分じぶん黒髪くろかみしました。ひとかんざしはなつても、月影つきかげいろ眞紅しんくだつたです。

 母様おつかさん大病たいびやう一刻いつこくはやくと、ぐに、美女びじよはらあとました。
 引返ひきかへときは、く、すら/\とりられて、はやあかつきとりこゑ
 うれししや人里ひとざとちかいとおもふ、つきちて明方あけがたやみを、むかうから、洶々どや/\と四五人連にんづれ松明たいまつげて近寄ちかよつた。ひと可懐なつかしくいそ/\ると、いづれも屈竟くつきやう荒漢あらをとこで。

 うち一人ひとりことかほと、おもした。黒婆くろばゞいへうまつないだ馬士まごで、馬士まご二人ふたり姿すがたると、がすなと突然いきなりわたし小脇こわき引抱きつかゝへる、のこつたやつが三にん四Ruby>人にんで、えゝ!とむすめ手取てどり足取あしどり

 何處どこ奈何どう方角ほうがくのくらゐけたか宛然まるで夢中むちうです。
 やがくと、むすめ、と二人ふたりで、おほき座敷ざしき片隅かたすみに、馬士まごまじり七八にん取巻とりまかれてすわつてました。

 なんねんわからない古襖ふるぶすま正面しようめんいたのやうなゆか背負しよつて、おほ胡坐あぐらひかへたのは、なんと、なりわたし仁王にわうだちした抜群ばつぐん親仁おやぢで。

 胱惚うつとりした小兒こどもかほると、過日いつかの四花染はなぞめあわせを、ひたりとまへげて寄越よこして、大口おほぐちいてわらつた。

 や、二人ふたりともつた、坊主ぼうずれ、をんなはゝれ、して何時いつまでも娑婆しやばかへるな、とつたんです。
 むすめ亂髪みだれがみになつて、はなつたまゝ、ひざいて、首垂うなだれてだまつてた。返事へんじ手段しゆだんつたとえて、わたし二晩ふたばん土間どまうへへ、可恐おそろしたか屋根やねうらつた、駕籠かごなかれてつるされたんです。かみせて、握飯にぎりめし突込つゝこんでくれたけれど、それべられるもんですか。

 たれからすかして、土間どま焚火たきびたのにゆきのやうなかほらされて、むすめしばられてたのをましたが、それなりくらんでしまつたです。どんと駕籠かご土間どまりたときなかから五六疋鼠ぴきねずみがちよろ/\と駈出がけだしたが、かはりむすめはひつてました。

 かをりたかくすりんで口移くちうつしにふくめられて、ひざかれたから、一生いつしやう 懸命けんめい緊乎しつかりすがくと、背中せなかまわつたくうでるやうで、むすめ空蝉うつせみからかとえて、たつ二晩ふたばんがほどに、いとのやうにせたです。

 うおかゝられぬ、あの花染はなぞめのお小袖こそで記念かたみわたしくださいまし。しか義理ぎりりますから、かなら恁麼こんなところ隱家かくれがると、まちかへつてもふのではありません、と蒼白あをじろかほしてかすうちに、駕籠かごかつがれて、うと/\と十四五ちやう

 奥様おくさま此處こゝまで、とこゑがして、駕籠かごりると、一人手ひとりてつてわたしそとしました。
 左右ひだりみぎ土下座どげざして、いてなか馬士まごた。一人ひとり背中わたしおぶふと、むすめ駕籠かごから見送みおくつたが、かほそでてゝ、長柄ながえにはツと泣伏なきふしました。それきり。」

 高坂かうさかこゑくもつて、
わたしおぶつたをとこは、むらはなれ、かはして、はるか鈴見すずみはしたもと差置さしおいてかへりましたが、をとこおうしえて、ながみち一言ひとことものません。

 わたしんだもの蘇生よみがへつたやうにつて、うちかへりましたが、丁度ちようどまる月經つきたつたです。

 はな枕頭まくらもと差置さしおくと、ときつてはゝは、呼吸いきかへして、それから日増ひましくなつて、五年經ねんたつてからくなりました。魔隱まかくしつた小兒こどもかへつたよろこぴのために、一旦いつたん本復ほんぷくたのだとひとりますが、わたしは、むすめつてくれた藥草やくさう功徳くどくだとおもふです。

 それにけても、恩人おんじんは、とおもふ。むすめ山賊さんぞくとらはれたことを、小兒こどもごゝろにもつてたけれども、かた言付いひつけられてかへつたから、其頃そのころ三ケこく横行おうこう大賊たいぞくが、ついわたしどものとなりいへはひつたときも、なんにはないでだまつてました。

 けれども、それからあしいて、二俣ふたまたおく戸室とむろふもといはしろきずいた山寺やまでらに、兇賊きようぞく こもるとれて、いま邏卒らそつといつた時分じぶん捕方とりかた人數にんずう隱家かくれが取巻とりまいたとき表門おもてもんまつ只中たゞなかへ、親仁おやぢだとひます、六しやく一つのまる裸體はだか脚絆きやはんかたく、草鞋わらぢ引〆ひきしめ、背中せなかへ十文字もんじひつ背負しよつた、 四花染はなぞめ熨斗のし紋着もんつき振袖ふりそでさつ山颪やまおろしもつれるなかに、をんな黒髪くろかみがはら/\とこぼれてた。

 一條ひとすぢ大身おほみやりひつさげて、背負しよつた女房にようぼう死骸しがいでなくば、死人しにんやまきづはず無理むり手活ていけはなた、申譯まをしわけとむらひ に、醫王いわうざん美女びじよはらはななかめてかへる。汝等うぬら見送みおくつてもいのちいぞと、近寄ちかよつたのを五六にん蹴散けちらして、ばつと退なかを、けると、いはび、いはび、いはんで、やがやりいて岩角いはかどかくれて、それなりけりとふので、さてはと、それからはわたしむすめ出逢であ門出かどでだつた誕生たんじやう に、鈴見すずみはしうへまでては、此方こちらをがんでかへり/\したですが、はゝなりました翌年よくねんから、東京とうきやう修行しゆぎやうまゐつて、くにかへつたのはやつ昨年さくねん始終しじうのぞんでましたやまへ、あとたずねてのぼことが、もの取紛とりまぎれてうちに、申譯まをしわけんだ勝手がつてな。

 又其またそくすりいたゞかねばならないやうにつたです。以前いぜんそれため類少たぐひすくなをんな一人ひとりいけにへたくらゐですから、今度こんど自分じぶん甚麼どんな辛苦しんくけつしていとはない。いかにもはなしいですが。」

 うちむねせまつて、なみだたゝへたためばかりでい。と、心付こゝろづくとえたやうにをんな姿すがたえないのは、くさふかくなつた所為せゐであつた。
 たけよりたか茅萱ちがやくゞつて、かた掻分かきわけ、つむりけつゝ、えないひとに、物言ものいけるすべいので、高坂かうさか御經おきやうつて押戴おしいたゞき、


  山川險谷さんせんけんこく
 幽邃所生いうすゐしよしやう
 卉木藥艸きぼくやくさう
 大小諸樹だいせうしよじゆ

百穀苗稼ひやくこくべうが
 甘庶葡萄かんしよぶだう
 雨之所潤うししよじゆん
 無不豊足むふぶそく
  乾地普洽かんちぶがふ
 藥木並茂やくぼくびやうも
 其雲所出ごうんしよじゆつ
 一味之水いちみしすゐ


 むぐらなかして、經巻きやうくわん に、あをつきかとおもくさかげうつつたが、つゝすゝうちに、ちら/\と紅來くれなゐきた り、黄來ききたり、紫去むらさきさり、白過しろすぎて、てふたはむるゝ風情ふぜいして、斑々はん/\いんしたのは、はやさきまじる四はな

 忽然こつねんとして天開てんひらけ、くもつゝまれて、たへなる薫袖かをりそでおほひ、唯見とみるとうづたかゆきごとく、眞白ましろなかくれなゐ ちらめき、みつむるひとみ緑映みどりえいじて、さつわかれて、一つ一つ、花片はなびらとなり、となつて、美女びじよはらはな高坂かうさかたもとにほひ、むねいた。

 花賣はなうりかごおろして、立休たちやすらうてた。かさいで、襟脚えりあしながたまべて、瑩澤つやゝかなる黒髪くろかみたかむすんだのに、何時いつにか一りんちひさはなかざしてた、つまはづれ、たもとはし大輪たいりんきく色白いろしろなかたゝずんで、高坂かうさかつて、莞爾につこむ、うつくしく氣高けだかおもざし、あるひとみきつられて、いま物語ものがたりつたひとともおぼえず、はつとおもふと學生がくせいは、すでわすれ、わすれて、たゞ九ツばかりの稚兒ちごつたおもひであつた。

「さあ、おはなしまぎれておそましたから、もうお月様つきさまえませう。それまでにどうぞ手傳てつだつて花籠はなかごんでくださいまし。」
 とをとこたよるやうにはれたけれども、高坂かうさかかへつて唯々ゐゝとして、あたかかみつかふるがごとく、ひだりきくり、みぎ牡丹ぼたんり、まへ桔梗きゝやうつかみ、うしろ朝顔あさがお手繰たぐつて、ふたゝぴ、鈴見すずみはし鳴子なるこわたしなわて夕立ゆふだち黒婆くろばゞなま豆腐どうふ白姥しろうばやき茄子なすび牛車ぎうしや天女てんによ湯宿ゆやどつき山路やまぢ利鎌とがまぞく住家すみか戸室とむろぐちわかれ繰返ぐりかへしてかたりつゝ、やがて一じゆんしたとき花籠はなかごうつくしく滿たされたのである。

 するとかごは、はなながらはななかもれてえた。
 月影つきかげしたから、伏拝ふしをがんで、こゝろめて、かしかしたけれども、みまはしたけれども、見遣みやつたけれども、ものゝかをりかたちあつてほのかまぼろし かとゆるばかり、くもゆきむらさきひとへよるいろまぎるゝのみ。

 ほとん絶望ぜつぼうしてたふれようとときおもけずると、かたならべてひとしくせてすらりとつた、黒髪くろかみ花唯はなたゞ一Ruby>輪りんくれなゐ なりけりつきひかりに。
 高坂かうさか足許あしもと平伏ひれふしたのはふまでもなかつた。

 其時そのときかたおとして、美女たをやめると、られてひざをずらして縋着すがりついて、そのおびのあたりにおもてげたのを、つきびて臈長らふたけた、やさしいかほぢつて、すこほゝかたむけると、かみ其方そちらへはら/\となるのを、そつおさへるに、かんざしいて、わなゝ醫學いがくせいえりはさんで、恍惚うつとりたが、ひとみうごき、
「あゝ、お可懐なつかしい。おもふおかた病氣びやうき屹度きつとそれなほります。」

 あはれ、高坂かうさか緊乎しつかめたいたづらくきつかんで、たもとそらに、美女びじよはら咲滿さきみちたまゝ、ゆら/\とまへたやうにおぼえて、ひと姿すがたとほつた。

 つてはうとると、いは牡丹ぼたん咲重さきかさな つて、しろぞうだいなるかしらごといたゞきへ、くもるやうつたとき、一鮮明あざやかまゆえたが、つき風無かぜなとなんぬ。
 高坂かうさかは(どう)とした。
 むねなるくれなゐ の一りんしをりに、かたはら芍藥しやくやくはなほうしやくなるきやうゑて、合掌がつしやうして、藥王やくわうぼんもすがら。



【完】







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