隣同士

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  隣同士  


 隣の彼女はとても小柄だ。まるで小学生のようだが、僕の知っている高校の制服を着ているのでどうやら歳は近いらしい。先程からずっと本を読んでいるのだが、そのタイトルは桜色のブックカバーが邪魔をして見えない。しかし、中身を盗み見すれば、それが小説や評論の類ではなく詩集であることがわかった。
 僕が彼女を初めて見たときの印象は『小さくて可愛い子』。ちなみに、そのイメージは今でも一緒だ。
 ここは朝の満員電車の中。僕と彼女は、有り得ないほどに密着していた。
 それなのに彼女ときたらまったく平気のようだ。知らない男とこんなにくっついて何とも思わないのだろうか。僕の場合、ドキドキしっぱなしなんだけどな。変に思われていないか、それを考えるだけで頭はパニック状態だ。彼女は、僕のこと、どう思っているのだろう?
 ……何で僕がこんなことを思っているのか、わからない人も居るだろうね。だって、ただ、現在隣に居るだけということで、こんなに悩むなんて。でもね、実はそれとちょっと違うから僕は困っているんだ。
 それは僕と彼女が毎朝同じ電車に乗り、今日のように満員であっても、また満員でなくても、僕と彼女がいつも隣同士になっていることだ。
 信じられる? 僕としては、これはもう偶然なんかじゃないと思う。多分、彼女が僕に合わせて乗っているのだろう。それって、少し期待してしまうな。彼女は僕のことが好きなのかなぁ……とと、こんなオイシイこと考えてちゃ駄目だ。もし、違ったら、哀しいからね。あくまで冷静に状況を分析しようじゃあないか。
 もしかしたら……彼女は僕に復讐をしようとしているのかもしれないし。僕は過去に、何かを盗んだり、人に危害を加えたことはないが、もし、もしもだ。もし人を、そんなにまで追い込んだならば……されて当然なのだ。いや、僕自身誰かに酷いことを言った覚えはないが、それでも、僕が気付いていないだけで、相手はそれをずっと引き摺っていたりするのならば……僕はどうすればいいのだろう。
 僕は、彼女の小さな頭を見た。この頭の中に、僕への憎悪……あるいは殺意があるのか。それを考えると恐ろしくなった。こんな小さくて可愛らしい少女の頭の中に、そんな濁った感情があるとは信じられなかった。   
 僕は首をぶんぶんと振る。すると、彼女がこちらをちら、と横目で見た。その瞳には憎しみなどの暗いものは見られなかった。どちらかといえば澄んでいる綺麗な目だ。僕はその瞳を見て、先程までの考えていたことを撤回した。そんなの、僕の思い込みであり、彼女には全く関係がないのだけれど。
 僕は何て馬鹿のことを思っていたのだろう。勝手に怖がってちゃ世話ないじゃないか。ああ、どうしてあんなことを考えてしまったのだろう。こんな綺麗な目をした女の子が、そんなおぞましいことを考えているがないじゃないか。僕は罪深い人間だ。
 でも、だとしたら、一体彼女は何を考えているのだろう。何を思い、僕の隣に居るのだろう。全くわからない。もしかしたら、本当の本当に偶然で、別になんとも思われていないのかもしれない。僕の考えすぎかもしれない。だとしたら、一人で舞い上がるなんて何と寂しい男なんだ!
 いいや、そんなことはない。きっと、彼女には何かあるのだ。だから、僕の隣に居るのだ。僕は偶然などと言う弱い言葉に屈しはしないぞ。彼女の心理をよくよく考えてみよう。そうすれば、この胸のもやもやも少しは取れるはずだ。よし、最初のように、僕に気があるという設定で考えてみよう。
 見たところ、彼女はあのお嬢様が多いS校の生徒のようだ。その制服からは高貴なオーラが漂っている。中でも彼女の制服はその紺色に埃すらついていない。こんな満員電車の中でも彼女のオーラはひとつも変わらず、そこにいるだけで一つの芸術のような気もする。いわゆる正統派の美少女と言うヤツだ。こんな子から好意を抱いてもらえていたのなら幸せだろうな、と僕は思う。
 次に顔立ち。これまた綺麗に整っている。眉は気が強そうに、上向き。目はぱっちり、というよりはどことなく伏し目がち。長いまつげが見えて、彼女の清楚なイメージを一層強めている。頬は化粧をしてもいないのに、ほんのり桜色だ。唇も、おんなじ桜色。真っ赤よりも僕にはコチラの方が好ましく思える。と、これら全てのパーツがバランスよく整っているのが、彼女の顔。そして表情。
 今はずっと本を読んでいるので無表情だけど、一度だけ彼女が友人と話しているのを見たことがあるんだ。
 そのとき、僕は初めて彼女の笑った顔を見た。
 感想は、『とても可愛かったです』。もう一度見たいなぁ、と思ってはいるものの、何かできるわけでなし、そのような機会は未だない。ああ、どうすればあの輝かんばかりの笑みをもう一度見ることができるだろうか。
 もう一度、見たい。そして、できることなら毎日でも見たい……。
 って、あれ? 僕は今何を考えた? 彼女の笑顔が見たい。そう考えていた。どうしたことだろう。僕は何を思っていたんだ。これじゃあ、まるで僕が……。
 そんなことは有り得ない! だって僕は彼女のことを全く知らない。学校だって、たまたま知っている制服だったからわかっただけだ。名前も知らないし、正確な年齢だって知らないし、ましてや何を好きで何が嫌いなのかも知らない。それなのに好きになるなんて絶対にない。そりゃ、外見は可愛いけど、人を好きになるのって、それだけじゃないだろう。中身の方が重要だろう? 僕はそう思っている。思っているからこそ、今まで僕はこうして、……十何年間も彼女なしでいたんだ。友人から、『お前、女に興味がないの?』と冷やかしのように言われた、その僕がだ。
 こんなに、頭の中を彼女でいっぱいにしているなんて。
 有り得ない。これは夢だ。僕は眠気のせいで物事を判別できなくなっているだけだ。
 そう思って、右の頬を思いっきりつねってみた。「ひぃ」と奇声をあげた……痛かった。だが、そのおかげで意識がはっきりする。その状態で再度彼女を見た。そして、僕はその場で固まったのだ。
 彼女が笑っていた。あの輝くような笑顔で。しかも、僕を見ながら。
 僕は恥ずかしくなって、縮こまった。うう、失敗してしまった。が、呆気なく念願の彼女の笑みを見ることができた。僕は痛いはずなのに、恥ずかしいはずなのに、とても心が充実感に満たされた。彼女が微笑んでくれた。それだけで気持ちが浮上する。僕は自分が本当に彼女に対して好意を持っていたことに気付く。
 しかし、気付いたところでどうするのか。彼女は僕のことなんか興味がない。また本の方に視線を戻している。僕はふいに悲しくなった。こんな惨めな気持ちになるなら、気付かない方がよかった。そんなことまで考えた。ああ、どうして僕はこうなんだろう。どうしようもないことに、ここまで悩むんだろう。
 と、そこで、アナウンスが入った。もうそろそろ降りる駅だな。ここで降りなければ、学校に遅れちゃう。早くしなきゃ、と思い、僕は人をかきわけながら、外に出ようとふんばった。しかし、中には強情な人も居て、退けてくれないときもある。そんなときは、『すみません、通してください』と、声を張り上げる他ない。もっとも、それをすれば自分が目立ってしまうため、あまりやりたくないのだけれど。しかし、厚化粧の酷い、太ったおばさんが退いてくれなかったので、僕は声をあげ、『通してください』と言った。すると、おばさんは気が付いて「あら、ごめんなさいねぇ!」
 と言った。その声が自分は悪いことをしていない、と主張しているように聴こえたので、僕は腹を立てる。でも単なる誤解だったらどうしよう? いざこざを起こしたくないからそのまま降りてしまった。
 冷たいホームの床に足をつくと、まだ彼女が見えるかと思って振り向く。すると信じられない光景が僕の目に飛び込んできた。
 窓越しにまっすぐ僕を見据える彼女。顔には優しそうな笑みをつくり、優雅な動作で手を振ってくれていた。
 他にも降りた人はいるけれど……不安だから手を小さく振ると、さらに手を強く降り返してくれる。やっぱり僕に対してなのだ。でも、どうして…………。
 そのとき、電車の発車ベルが鳴った。
 ぷしゅう、と電車が進み、彼女はみるみるうちに遠ざかってしまう。それでもなお、手を振ってくれた。人も去り、しんと静まったホームに聞いたこともない彼女の声が柔く響いている気がする。気のせいに決まっているけれど、寂しくなる。
 また会えるかな。いいや、昨日今日と一緒だったんだ。明日もきっと会えるさ。
 期待を胸に、僕は学校へと急いだ。
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