風が吹いて木々を揺らす音に、は瞳を開いた。
白く、全ての色も景色も消えてしまったかのような光の世界はそこにはなく、穏やかな森が続くばかりだ。
ここはどこだろう。
その疑問を浮かべた瞬間、周囲を見渡した。誰もいない現実に気づき、息を飲む。
「どうして…まさか、私だけ…?」
上半身を起き上がらせようと地面に手をついたその時、ようやくは自分が今どこにいるのかを理解した。相等な高さから落ちたはずの自分が無事な理由も。
クッション代わりに、は何かの上に座っていた。
「ちょ、人!!!」
下敷きにしてしまった人間の体を揺すると、うつ伏せになっていた顔がこちらを見る。明らかに怒っている…それはそうだろう。人間をその体で受け止めて無事だったのは幸いだが。
「貴様…いきなり空から降ってくるとは!この悪め!!」
「わ、悪気はなかったんです!とにかく助けていただいてありがとうございました!!」
相手がこれ以上怒りだすより早く、急いで謝罪する。
深々と頭を下げたを前に、相手は一瞬出鼻を挫かれたようだ。その隙に、が口を開いた。
「あの…連れを見ませんでしたか…?」
「何人か空におったがどこへ落ちたかは知らん!全く、貴様のせいで街道から外れてしまったではないか」
空から落ちてくるのを見た、という事は側に落下するを受け止めようとしたのだろう。偶然上へ落ちてしまったわけではない事に気付き、が再度頭を下げた。
「このご恩は忘れません。私はと申します。貴方は…」
無礼のないよう言葉を選んだつもりだが、相手の表情は険しいままだ。
の言葉に耳を貸さず、周囲を警戒している。
「あの…?」
「削除!!」
の声を遮って、男が大木へ向けて小刀を投げた。だが木へ刺さる事はなく、途中で何かにぶつかり、一瞬の金属音と共に地面へ落下した。
そのまま、第二のクナイが飛んでくる。
「な…敵!?何で!?」
「ええい、寝ぼけた事を!ここは小田原の地なれば忍くらいおろう!」
「小田原…?」
起き上がろうと足に力を込めた瞬間、バランスを崩す。
…立てない。
落下の際、捻ったというわけではないのだが、足に力が入らないのだ。
空間を移動するという光の使い方が、肉体へ負担をかけてしまったらしい。
「貴様は一人で何処へでも逃げるがいい!足手纏いだ!」
「無理です…歩けませんもん…」
男が舌打をしてを見る。ここへ置いて自分が別の場所へ敵を誘導するには、あまりにも狭い。
意を決して、男は声を上げた。
「聞け、忍よ!私は浅井長政!此度は北条に援軍せんと此処に参った!!」
「…浅井…長政…?」
聞き覚えのある名前を聞いて、は首を傾げた。
やがて、その名前と共に悲愴に満ちた少女の声が脳裏に響いてくる。
『どうして、長政様は市を迎えに来てくれないの』
「ああああー!!!」
「やかましい!急に声を上げるとは、悪め!!」
「市の旦那さん!!」
指ざしされて、長政が怒りか照れなのか、赤面させて振り返る。戦場という事も忘れ、刀を下ろしへと振り返る。
「貴様…私をおかしな言い方で呼ぶな!」
「え?本物ですよね?市の旦那さんで合ってますよね?長政様ですよね?」
「大体、貴様は市の何だというのだ!!」
「市と私は友達ですけど…?」
長政の顔から一瞬冷静さが返ってくる。だがすぐにそれは笑い声と化した。再び顔を上げた瞬間には、勝ち誇った笑みを見せて。
「市に友など聞いた事がないわ!貴様、下らぬ嘘をつくとは悪である!!」
「嫁の友達だったら悪呼ばわりですか…大体、小谷は織田と豊臣の手で…」
「我が領民も領地も…全て奪われ、悪に膝をついてしまった不甲斐なさは、どうあっても拭いきれぬ。だが、義兄上亡き今!市が豊臣にて囚われていると耳にしたのだ…」
「…で、何故小田原に?」
素直に首を傾げるに、今日何度目かわからない怒りゲージを振り切って長政が叫ぶ。
現状を理解していない少女に、何故ここまで熱く説明させねばならないのか…それは、おそらく自称市の友達だからだろう。
「豊臣は今ここ北条を攻めんとしているからだ!」
「あの…言いづらいんですけど…市はもしかしたら徳川にいるかも…」
「徳川だと?豊臣の手足となった奴らならば、尚更!この戦に参戦せねばなるまい」
一瞬、長政の言葉の意味がわからず、は黙り込んだ。
あの日、大坂で…は幸村らと共にこの世界から姿を消した。その後、どうなったのだろう。
四国の元親らは逃げ切れたのだろうか。
家康は忠勝と合流し、大坂を去れたとばかり思っていた。一人姿を消した市は、今どこに。
何より…長政の言葉でわかるのは、徳川は結局豊臣の傘下に入ったという事だ。
「家康は…って、ヒッ!!」
思わず息を飲んだのは、突如長政の背後に立った人影の存在に気づいたからだ。
音も気配もなく現れたその男は、兜で表情は見せず、何も語らない。
見詰め合う時間が過ぎるばかりに思えたその場で、長政もようやく事態に気付く。
「貴様か、忍。北条氏政殿にお目にかかりたい。案内せよ」
沈黙が続く。
忍は肯定も否定もしないまま、結局返事もせず、そのまま姿を消してしまった。
「あの、無視ですか?」
「悪めぇぇぇぇぇ!!」
長政に負ぶられる形で森を抜け、戦への準備と警戒に殺気立つ小田原へと足を踏み入れる事となった。
事前に状況は伝わっていたのか、城下町には民が一人もおらず、道中は閑散としたものであった。
ようやく体力も戻り、歩く程度なら問題なくなったも、長政の背中から降りて小田原の土を踏む。
「お手数をお掛けしました。いやぁ、市にバレたら黒い手で絞め殺されるかも」
「…貴様、本当に市の友なのだろうな?」
「疑り深い人だなぁ…ほら、そこの見張りさんに入れてもらえるようお願いしましょう」
が指差す大手門を前に、見張り達が一斉に槍先をこちらへ向ける。ここへ来るまで何度かあったやり取りだが、さすがに城門前では名前だけで通してもらえないかもしれない…そう考えていたの耳に、長政の怒声が響いた。
「何を言う、貴様!私は浅井長政だぞ!!」
「ですから、氏政様の命により、何人たりとも門は開けられないと申しております!」
「私が!悪を削除せんがため!援軍を申し出ておるのだ!!」
離れていても聞こえる長政の声に、は頭を抑える。
ここに留まれば、豊臣軍が攻めてくる。篭城戦となるのならば、ここから手を引くべきなのだろうが、肝心の長政が折れようとしない。
一人生き延びるのなら、それでも構わない。
戦に巻き込まれるのは御免だ。また豊臣の人質にされる可能性もある上、今度は前回の恨みを買って殺されるかもしれない。
だが、徳川が豊臣についたという話も気になる上、市に長政の生存を知らせたい。
「あのー長政さーん、どうしても北条さんの味方になるんですか?」
「またその話か!これ以上悪を許してはおけんのだ!!」
「…面倒な人だなぁ」
熱血という点では幸村といい勝負だが、正義感が強すぎて融通が利かない。
溜息をついて見張りへ近づくと、は出来るだけ自然に笑みを作った。
「私は武田信玄の娘、に御座います。北条との盟約により参ったとお伝え下さい」
「…はぁ!?」
長政が素っ頓狂な声を上げたが、それに構わず味方の一人が伝令へと走る。
見張りよりさらに凶悪な顔でを見ると、怒りに声を震わせる。
「市の友の次は武田の娘だと…?貴様という女は一体どこまで…」
「嘘じゃありませんよ、ちゃんとお館様直々に養女にしてもらった身ですし、北条と同盟関係なのも事実ですから」
長政が言い返すより早く、門が開く。
亡国の主より、上洛を果たした国の娘の方が、名声は使えたようだ。その事実に、長政が歯を食いしばる。
内心、信玄の名前を使った事に罪悪感はあるが、これで北条と会える。
「そもそも!この小田原の地は、代々!ご先祖様が守り続けられた由緒正しいものじゃ!それを豊臣風情が易々と進入できる場所ではない!!」
拳を強く握って唾を飛ばしながら力説する目の前の老人こそ、この小田原城の主である北条氏政らしい。
案内された部屋で大人しく正座をしつつ、火の粉は全部長政に受けてもらおうとその背中で空気に徹する。
「これまで豊臣がどれだけの城を打ち滅ぼそうが所詮は雑草のような城ばかりじゃ!」
「我が小谷も織田との連携により攻め滅ぼされ、城も里も皆焼け落ちた!城ばかり残っても意味がない!」
「黙らぬか小童が!この城こそご先祖様の栄光!城を守らずして何が国じゃ!」
意見の合わない口論を他所に、は外を見る。
結局小田原城まで来てしまったが、幸村達はどうしているのだろう。どこかで自分を探してくれているのだろうか。それとも、一度上田城へ帰ってしまったのだろうか。
「滅んだ浅井の力などいらぬわ!ところで武田の娘!」
「あ、は、はい!」
「どのような話でこの小田原に参ったのじゃ?申してみよ」
一瞬、脳がフリーズしかかったが、我に返ると咳払いをする。
用事など、ない。
信玄の名前を出した以上、嘘は許されない。話しながら、説得するしかないようだ。
「私はこの数ヶ月、実は豊臣軍に捕らえられておりましたが、徳川の協力を得て、何とか城を抜け出せたので御座います。そんな私を拾って下さったのが浅井長政様です」
笑みを浮かべて、内心の焦りを誤魔化す。
嘘はついていない…長政が、口調の変わったを冷めた目で見ているが、気にしてはいけない。
「武田と同盟関係の北条様ならばお救いいただけると信じ、こちらまで参りました」
「フム、武田のう…篭城するのならば、援軍を要請し、挟み撃ちを…」
「氏政様、豊臣の力は恐ろしゅう御座います。まずは上田におります真田に伝令をされては?あそこには…」
「上田?あそこは既に徳川の手に落ちておるのじゃ、直接甲斐の…」
言葉の意味がわからず、一瞬呆けたが、すぐに我に返った。
上田城が、徳川の手に落ちたという話など、聞いた事がない。
「う、上田城が!?何で!!」
「おい、化けの皮がはがれてるぞ…」
「何じゃ急に、知らんかったのか?徳川がつい先日圧勝したと聞いておるが…」
「そんな…家康がどうして…」
立ち上がりかけた体から力が抜け、ぺたんと座り込む。
大坂から脱出し、忠勝と共に三河へ帰ったのではなかったのか。何故、拒み続けた豊臣に、結局下ってしまったのか。
家康も負けてしまったのだろうか、力を前に。
そして…の存在を知っていながら、何故上田城でなければならなかったのか。
「何じゃ、風魔」
氏政の声に顔をあげると、そこには先ほど森で出会った忍が音もなく現れていた。報告に来たらしいのだが、口を開く前に氏政が怒鳴った。
「豊臣が攻めてきたじゃとぉ!!?」
「え、何でわかるのそんな事…」
「伝令じゃ!配置につき、今すぐ栄光門を閉じるのじゃ!!!」
風魔と呼ばれた忍はすぐに風と共に姿を消し、城内が慌しくなる。法螺貝の音に混じって刀と鎧の金属音が響いた。
長政もその声に応じて刀を握る。
「勝手ながら私も参戦させていただく!」
「フン、好きにせい。門には傭兵を雇っておる、邪魔だけはせんように!」
「傭兵…だと?もしや、五本槍と言う連中ではあるまいな?」
「何じゃ知っておるのか?」
「ああ!薩摩に行くって言ってたあの五人組!懐かしいなぁ」
長政の脳裏に、小谷城での戦いの光景が蘇る。
玄武砦を任せていた彼らは、少し剣を交えただけで戦国最強砲とやらを持ち出し、明後日の方向へ打ち出した挙句、そのまま自爆してしまった、あの給料泥棒の存在を。
「削除おおお!!!」
「長政さん、お気をつけて!」
の声も聞こえないまま、頭に血を昇らせて長政が城から飛び出す。
氏政も、槍を取り出すと本陣へと向う。も、一瞬迷ったが、その背中を追う。
「と申したな、豊臣はどのような男じゃ?」
「片手で岩とか砕けそうな位強そうです」
「何の!このご先祖様伝来の槍と技をもってすれば…!」
氏政の声が止まる。
ピクリとも動かなくなった体がバランスを崩し、先祖伝来の槍が落ちる。
そのまま腰に手を当て、痙攣を起こし始めた。
「おおおおおおお…こ、腰があああ…」
「え、おじいちゃん大丈夫ですか!?」
動かしてはいけないと思いながらも、こんな土っぽい場所に寝かせるわけにもいかない。
担架と湿布を、と人を呼ぼうとしたの声は破壊音で誰の耳にも届く事はなかった。
閉ざされた門から、爆煙が上がり、何かが転がってくる。それが人間だと気づいた瞬間、は息を飲んだ。
「曲者じゃぁ!かかれぇ!!ぬお、腰がっ…!」
「ほ、本当に無理しないでおじいちゃん…」
「誰がおじいちゃんじゃ!」
氏政の表情が変わった事に気付き、は背後を振り返る。
側にいた護衛は皆、悲鳴と共に崩れ落ち、一人の男が立っていた。その男の名を、は知っている。
「待て…豊臣…秀吉!」
が名を呼ぶ前に、門の向こうから声が響く。
既に負傷し、額から血を流し辛うじて立っている長政が、石畳の階段をようやく昇りきったところだった。
秀吉が振り返ると、支えにしていた刀を彼に向ける。
「市はどうしたと聞いている!」
「何度も言わせるな、知らぬ。そのような無様な姿を晒す位なら、小谷で死んでいればよかったものを…」
「貴様!!」
長政が挑発に乗り、突進してくる。だが負傷した足と乱れた剣筋では、易々と避けられ、右手を捕らえられる。
「ぐあ!!」
右腕の骨が軋み、痛みで刀が地へ落ちる。その隙を突いて、反対の手が長政の頭を掴み、持ち上げられる。
頭蓋骨が悲鳴を上げようとも、長政は激痛にひたすら耐える。
「哀れな、弱者よ…散るがいい」
「く…悪め…!…ッ…!!」
「離しなさい!秀吉!!」
女の声で、秀吉がこちらを向く。
その隙を狙って、槍が彼へと投げられていた。鋭い槍先は、秀吉に届く事なく虚しく地面へドスンと刺さるだけに終わった。
「……あれ?届かなかった…」
「き、貴様ぁ!ご先祖様から代々続く槍を!」
「…ほう、このような場所に紛れ込んでおったか」
隠れていればよかったものを、そう胸の奥で呟く秀吉だが、こうして対峙してしまったを潰す必要があった。大坂で逃げた武田の姫である以上。
だがその前に。
「ぐあああああッ!!!」
「長政さんを離してって言ったでしょ!人の話聞いてんの!」
「我が何故貴様の話を聞く必要がある?」
「あるわよ!!」
長政の苦痛の声を前に、は更に大声を張り上げる。
一秒でも早く、長政を救わなければならない。その瞬間、計算など吹き飛んだ。
「竹中半兵衛を預かっているわ!」
長政の声が途切れ、荒い呼吸と変わる。
秀吉の力が緩まったのだろう。表情は何ひとつ変わらないが、確実にその耳に届いている。
「政宗さんに斬られて、出血が酷かったのに死体は見つからなかったんでしょう?我が武田が治療して、命は助かっているけど…見殺しにするなら、どうぞご自由に」
弱点となるから、という理由で恋人を殺した男に、こんな交渉が通じるだろうか。
だが、長政はすでに苦痛から解放されている…迷っているのだろうか。
「僕にとって必要なのは自分の命じゃない、秀吉の力になる事だ…って言われましたけど。長政さんを救ってくれるなら、半兵衛さんをお返しします」
そのまま、は頭を下げた。
呼吸の荒い長政が、地面へと落とされ、一瞬苦痛の声が上がった。
それと同時にが顔を上げる。
「いいだろう、我が軍師を失う事を思えば、安い命よ」
「貴様…!」
「本当に!?ありがとうございます!」
交渉に礼を言うものでもなければ、命のやり取りであるのに、嬉しさの余り、素直に言葉が出る。
だが、秀吉は冷たい目のままを見る。
「半兵衛の身の交渉を、何故己に使わない」
「え?ああ、私の命を狙ってるという意味ですかそれは…ううやだなぁ」
「…答えよ」
「そんなの簡単です。私があの子にしてあげられる事はこれしかないもの」
その言葉に、長政が顔を上げる。
自称と決め付けた、市の友人。その女が、全てを犠牲にして、長政を救おうとしている…市のために。
「では、その老人はどうする。見殺しにするか?」
「は…え、何言ってるんですか!こんなおじいちゃんに乱暴する気!?」
「そうじゃぞ!腰が痛くて死にそうなのじゃ!!」
「フン、知ったことか。ならば死ぬがよい、老害」
「子供だってお年寄りに席を譲るのに、何言ってるんですか!」
「そうじゃそうじゃ!もっと労わるべきじゃ!!」
秀吉の前に、子供めいた反論をしてみせても、氏政を救う手立てはない。
交渉の材料も使ってしまった。
秀吉の力に対抗する力を持った人間はおらず、逃げ道もない。
息を飲むの耳に、聞きなれた声が響いた。
「待て、豊臣」
別れた時と変わりない黄金の甲冑姿の男が、と秀吉の間に立つ。
「家康…」
泣きそうな声でその名を呼ぶ。
別れてから僅かな時間しか立っていないのに、随分と懐かしく感じさせるその背中が、の前に立った。
- continue -
2009-08-30
そんなわけで最終章の天下編です。
これで勢力としては全部出たかな?武蔵と松永だけですね残りは…どうしようこの二人…
長政は普通に生きてました…ごめんなさい…みんな私のせい…一度も死んだとは書かなかったしね…