早川徳次 小伝

早川徳治ではなく、早川徳次です。念のため。

 シャープ株式会社の創始者、早川徳次は、家業の衰微と母親の病気のため、二才半で貧家の養子に出された。そして五歳の時、養母にも死なれた。母親と二度も引き裂かれた訳で、これは子供(幼児)にとって、相当なショックだったろう。

 次に来た継母が、これが伝説的な女性で、早川少年を深く憎み、殴る蹴るは当たり前。真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落とし、放置した。

 驚いて近所の人々が助け出したのだが、継母は早川少年を井戸端いどばた に引きずって行き、厳寒の中、罵声とともに井戸の水を浴びせ続けたという。これはもう、虐待などと言うものではない。よく死ななかったものだ。食事もしばしば、与えられなかったと言う。

 ふと、「父親は何をしていたんだろう?」と思う。そうすると、早川少年には母性だけでなく、父性もまったく欠落していた事に気付く。

母性と父性の定義

 学校も、「勉強なんかさせてやらん。働け。」と言う訳で、小学校を二年で中退させられた。後に日本初の鉱石ラジオ、日本初のテレビ製造の指揮を取り、科学や工学の分野で目を見張る才能を発揮する早川徳次の、これが最終学歴だったかも知れないと言う。

 非常に偉大な事業を立ち上げる創業者には、その人生の最初の十年を見ただけで、「この子はもう終わりだな。」と、誰もが思うような人が多い。彼らはそれほどの事をしなければ、自分の意識を償う事ができなかったのだろう。

 八才の時、この状況を見かねた近所の「井上さん」と言う盲目の女行者が、早川少年の手を引いて、かざり 職の丁稚奉公に連れて行ってくれた。『行者』と言うから、修験道か何かを信仰されていたのだろう。
 晩年に成っても早川徳次は、「この時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない。」そう、述懐しておられたと言う。

 かざり職の仕事、金属加工は、男の子にとっては少なからず楽しいものだったろう。ここで彼は金属や物質の特性、その構造や組み合わせ、美的センスも学んだ事だろう。
 そして何より、父性を学んだ事だろう。職人の親方マイスターと言えば、頼もしく男気にあふれ、まことに気持の良い人が多く、その高い技術を通して、 何かを本当に尊敬すると言う気持を、教えてくれる。
 その後の早川徳次の歩みを見ると、この親方は、本当に立派な方だったのだろうと思われる。

 十九才の時に最初の特許、穴を開けないでベルトを締められるバックル、『徳尾錠』を考案。これは金属の形状と角度、摩擦を利用した実にシンプルな作りで、見るほどに見事な発明品。いま私の使っているベルトも、この方式である。
 彼はこれで独立した。

 二十二才の時に、さまざまな試行錯誤がなされていたシャープペンを、ほぼ現在の形に考案。「早川式繰り出し鉛筆」はのちに世界中の人々の必需品と成った。日米で特許を取り、事業は軌道に乗った。

 これも、黒鉛の棒などを金属ではさむと、軽い力でも強固に固定できると言う現象を利用したもので、やはり金属と摩擦を利用したものだ。

 しかし、ベルトのバックルにしてもシャープペンにしても、今後文明が存続する限り、永遠に人々から愛され続ける発明品ばかりである。いったいどうしたら、そんな発想が出来るのだろう?
 私はどうしても、早川徳次の人格と、合わせて考えてしまう。つまり、

 「世界中から切断された経験がないと、実際に世界中を愛する事など出来ないのではないか?」

 と言う疑念である。

発明品と発明家の個性について


 事業は安定した拡大を続けていた。ところが三十才の時、関東大震災で、ほとんどすべての工場と営業所を失う!
 そしてあろう事か! 妻と二人の子供まで、失ってしまう!

 しかしすぐ翌年、早川金属工業研究所を設立。鉱石を使ったラジオ開発に、果敢な挑戦を開始する。

 私が本当に驚いたのは、ここの所である。

 「幼少期に充分な愛情を得られなかった者は、小さな障害にも弱く、すぐに挫折してしまうのではなかったか?
 ところがこれは、『逆境に強い』なんて言うもんじゃない!」

 早川徳次もこの時には、「何もかも、元に戻ってしまった。」と言って、泣きに泣きに泣いたと言う。
 もし私なら、この時点で自殺か隠棲をする。つまり浮浪者と成って、一切の意欲を失ってしまったろう。到底 「何かしよう」 なんて気分には、成れる筈もない。
 ……… どうやら、悲しみを知らない事が、強い事ではないらしい。
 では強さとは、悲しみを何かに変える力? いや、少し違う。むしろ、悲しみを受け入れる力と言った方がいいのかも知れない。言葉にすれば、何もかも軽薄に聞こえるのだが ………

 父性も母性も経験しなかった早川少年は、それを補うために、自分で自分の中に父性と母性を築き上げたのだろうか?
 いずれにせよ早川徳次は、いつの間にか強固な父性と母性を持っていた。どんな立派な両親に育てられた子供よりも、ずっと ………

 また、自分と同じような境遇で生き残った社員の顔が、彼を励ました事は想像に難くない。人は生きている限り、何もかもを失う事は、出来ないのかも知れない。

 鉱石ラジオ。日本ではまったく新しい技術である。普通こう言った開発をするには、企業は万全でなくてはならない。ただ「アメリカのマネをしたらできるだろう。」なんて考えていたら、痛い目に合う。さりげない部品の一つにも、長い時間をかけ、創意工夫が凝りに凝らされている。こう言った事は、実際に作ってみなければ、なかなか解らない。私達も他社に惜しげなく作り方を教えてやったりしたが、それは、
 「教えて簡単に出来るもんなら、お前ら好きなだけマネしてみい。この仕事がどれだけ困難なものか、ちぃとは分るだろう。」
 と言う気持があったからである。某国が21世紀の今なお、100年前の鉄道一つ自分では作れない事を見ても分るように、「創作とマネの差」は、絶望との格闘があるかないかだけの差で、(それは小さなものではないが、)労力はほぼ、同じなのである。
 誰かのマネをするには最初から、その人とたいして変わらぬ実力がなければ、出来るものではない。
 日本人が「マネをするのがうまい。」と恐れられるのは、おそらく労力や苦労を当然の事として、まったく惜しまないためで、「マネをしたら楽で、簡単に出来る」などと考えていたら、終生みじめな盗賊の子分で終わってしまうだろう。

 しかし、多くの日本企業がした『マネ』は、たとえば「絵を学ぶ人が巨匠の絵画を模写するようなもので、」 これは、確実に実力として蓄積されて行く。

 そして、なぜ日本人がマネをするかと言えば、他者を心から尊敬するからである。これは、最高の強みであると思う。

時間の質? (日本人のマネと独創)

 だから新しい技術は、開発業務だけでも方針が二転三転し、企業にとっては命取りになる事がある。ところが債権者からの告訴を始め、舌筆につくしがたい苦労の連続だったと言う。鉱石ラジオは、そんな中で開発された。

 そしてNHKラジオ放送開始と同時に、小型鉱石ラジオは販売された。
 私の小さい頃、家にはまだ、鉱石型のラジオがあったのを覚えている。まさか、この時の製品ではなかったろうが、よほど大切に作られたのだろう。壊れやすいはずの、ボリュームと一体型に成ったスイッチは、数十年の使用に良く耐えていた。

 見事なタイムリーヒット。これで早川徳次は新たな一歩を踏み出した。

 しかし社会は、壊滅した首都東京のダメージと、有名な『震災手形』で、不況から恐慌へ、そして戦争へと向かっていた。そして「本当に苦しいのは戦後だった。」と言う。
 考えてみると、当たり前だった。私は戦争へと追い込まれて行った戦前と、戦中の悲惨さにばかりに目が行っていたが、「その後」こそが当然、もっとも苦しいはずだった。

 どんな企業でも、何一つ安心していられない時代が、長く続いた。

 そして、これこそ特筆すべきだが、どれほど苦しい中でも、早川徳次は貧しい人、不幸な人、身障者に対して、援助の手を休める事がなかったと言う。
 これも、驚異的な事である。
 「幼少期に虐待を受けた者は、怨恨がそのまま人格になったような、多少神経症がかった凶悪、と言うより、低劣な犯罪者と成るのが当たり前ではないか?」

 しかし彼は終生、少年時代の自分自身を救い続けた。彼は彼が経験しなかった父と母、そのものに成っていた。
 晩年になるほど福祉に対する情熱は高じ、彼は自分の人生を完成してしまった。色紙を求められると必ず、

 「なにくそ」

 と書いたと言う。彼が「なにくそっ」と言って自分の生命力を奮い立たせる時、自我の両脇を支えるのは、まさに父と母である。これを繰り返すうち、彼の人格の中には、本当に父と母が根づき、常に彼を助けるように成って行ったのだろう。
 私の小学校の時の先生が、「自分で自分をなぐさめたり励ましたり出来る人が、一番えらいんです。みなさん、そういう人に成ってください。」とよく言っていたが、それは、こう言う意味だったのかも知れない。

 そして私には何の脈絡もなく、早川徳次の人生から思い出す事がある。

 それはユングが自分の進路に迷っていた時に見た夢である。
 ユングは思春期、カントやショウペンハウアーを読み、充分に理解し、「彼らと対等に語り合えるのだから、自分は彼らと同じくらい、えらい人。」と感じていた。(実際にそうだったが。)そして世界、宇宙の秘密に興味を持っていたので、世界と自己とを同一視し、自我は肥大の傾向にあった。
 そんな時に見た夢である。

 「どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進を続けていた。深いもやがあらし一面にたちこめていた。私は手で今にも消えそうな小さなあかりのまわりをかこんでいた。すべては私がこの小さなあかりを保てるか否かにかかっていた。不意に私は、何かが背後からやってくるのを感じた。振り返ってみると、とてつもなく大きな黒い人影が私を追っかけてきていた。しかし同時に私はこわいにもかかわらず、あらゆる危険を冒してもこの光だけは夜じゅう、風の中で守らなければならぬことを知っていたのである。」
 (『ユング自伝 1』みすず書房 ヤッフェ編 河合隼雄 藤繩昭 出井淑子 共訳 135頁)

 目が覚めるとユングは、ただちにこの夢を理解したと言う。
 巨大な黒い影は、肥大した自我が自分の意識に照らし出され、もやに映った不気味な姿で、
 灯火を守っていた自分は、一貧乏学生たる現実の自分。
 肥大した自我は、結局ただ自分に従うだけの、自分の影法師に過ぎず、
 灯火を消さぬ努力とは、現実に対応する事。勉強、資金面の解決など。
 風は時間である。
 常に前進への努力を続けていないと、自我は非現実な夢想の中に、すぐに埋没してしまう。

 これが、十代の学生の見る夢だろうか? 私ならたとえ九十代になっても、絶対にこんな深い夢を見る事は出来ないだろう。おまけに「目覚めるとすぐ、この夢を理解した。」とは! 本当に驚倒する。

 さて、この夢が早川徳次の人生と、何の脈絡もない事はご理解していただけたと思うが、こう考えてはどうだろう?

 少年時代、自分を見て、闇から救い出してくれたのが、自らは光を持たない「盲目」の「女性」で、しかも「行者」であった事。彼は終生、その手に導かれたのではないだろうか?
 後に早川徳次はこの女性に充分なお礼をしたが、彼女はなかなか受け取らなかったと言う。このような人にあっては、立派に成った少年の姿より他には、報いはないのだろう。しかし彼女が救い出したのは、彼女自身にとっても光ではなかったろうか? これも、意識(運命)の均衡化作用だと私は思う。

 この、『盲目の女行者が、光の子供の手を引いて闇から救い出すイメージ』は、非常に興味深いものではなかろうか? 後に彼は本当に、光の子供として成長を始めるのである。覆い被さってくる闇を、何度も「なにくそっ」と打ち払い、強風の中で、行者のように前進を続けた。

 夢から覚めた時のユングも、「なにくそっ」と言って、現実に立ち向かって行ったのではないだろうか?
 「唯一の光を、強風に消されてなるものか。化け物のように巨大な、肥大した自我の、おだてになど乗るものか。この時期を逃して、時間に流されて、放逸のうちに老いてしまって、なるものか!」 ……… と。

 だから二人とも夢、本当の自分の人生を、現実のものに出来た。人の世の光となって、多くの闇を払った。そうして自己実現、一人の人間になる。本当の意味で個人になる。自分の人生を完成させると言う、稀有(けう)な事を成し遂げ、光の中へと帰って行った。

 人間の自我意識など、ひと吹きで消えてしまうような、ちっぽけなものだ。周囲の状況で、どのようにでも変わる、あやふやなものだ。しかしそれが唯一の光なら、闇の全てに対しても、同じだけの力を持っているはずだ。誰もが信じたいこの事を、彼らは立派に証明して見せてくれた。

 私の勝手な想像の中では、早川徳次はもはや、人間に生まれ変わっては来ない。だって、人間の人生を卒業したのだから ………
 現在『早川大明神』として活躍しているはずである。そして、真面目に研究をしている人々に、ノーベル賞を配って歩くなどの仕事をしている。
 いつも、耐えがたい仕打ちや、不可能な困難に直面している人のそばにいて、その人が自分の力に気付く手助けをしている。
 彼は誰でもが、自分をすぐそばに呼び寄せられる呪文まで、教えてくれた。

 『 なにくそっ 』 と。

 早川徳次の人生の軌跡も、ベルトのバックルや、シャープペン以上に、世界中の人々から親しまれ、多くの人々が彼を自分の自慢のように語り継ぎ、長く長く人々を励まし続ける事だろう。

おしまい。




 この項、シャープ株式会社ホームページ。  (別ウインドで立ち上がります。この「90年の歩み」から、早川徳次の肉声が聞けます。)
  ならびに10年位前にシャープ本社に直接電話取材した内容。(迷惑したろうなあ。ありがとうございましたっ!)
 『さあやるぞ、絶対に勝つ 1』桐山靖雄 著 平河出版社
 を参照させて頂きました。

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