「しつけ糸」
藤沢水樹
 趣味は和裁。使うのはミシンではなく、全て手縫い。一つ一つ、丁寧に針を通していく。
「おい」
 低い声。名前を呼ばず、背中も向けたまま。それでもその声は、私を呼んでいるのだ。
「なんですか」
 そして私も顔を上げずに答える。
 かさっと、新聞をめくる音が聞こえた。
「次の休みは仕事だ」
「わかりました」そう答えれば、これで会話は終わる。私は止めた手を再び動かし始めた。
 縫い終わったところから、しつけ糸を抜いていく。綿のしつけ糸は、僅かな力で容易に切れる。
 結婚してもう三十二年。私は五十二歳になり、夫はもう直定年を迎える。相変わらず下着から靴下まで、私が用意しなければ、夫はどこにあるのかわからない。アイロンをかけたシャツを渡し、スーツと、最後にネクタイ。
 するりと首に回してネクタイを締める。新婚当時は上手く結べずに苦労したものだ。
「行ってくる」
 磨いた革靴を履いて、夫は玄関を閉めた。
 自分ではなにもできない夫は、シャツに皺があると怒り、靴が汚いと怒鳴る。
 几帳面で、ネクタイを緩めて帰ってきたことは一度も無い。ネクタイを解くのは、スーツを脱ぐときぐらいだろう。
 家事を済ませ、私は縫いかけの浴衣を手に取る。しつけ糸の残る部分は少ない。これももう直仕上がる。
 日曜の午後。私は一人で針を持ち、浴衣を縫いつづける。――どれだけこんな日々を続けたか。
 夫が帰ってきたのは、午後十時を過ぎた頃。
 私は夫を迎え、脱いだスーツとネクタイを受け取る。スーツを片付け、ネクタイを手にして下着と靴下だけの夫に振り返る。
「泊まっていらしても良かったのに」
 ぎょっと瞠目する夫に、私はひらりとネクタイを掲げて見せた。
「ご存知でした? 一年ほど前からずっと、ネクタイに糸を絡めておいたんですよ」
 立ち尽くす夫に笑みを向ける。この人に笑いかけることも久しい。
 いつも通りに帰る平日は、家まで戻ってくるしつけ糸。遅くなった日や、休日に残っていることはほとんどなかった。
 なにも言わずに遅くなる夫が、急に電話かけてくるようになる。その頃から休日の仕事が増え始める。
 定年間近な夫に、また女性の影。
 趣味の和裁はいつからか仕事に。そんなことも知らなかったでしょう。娘夫婦と同居する準備が整っていることも何も。
 間抜けな姿で立ち尽くす夫に、最後の言葉を告げる。
「別れましょう、あなた」
 もうネクタイに、しつけ糸を絡めることはない。
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□名無しさんからの批評 (2003/12/11 00:44) フォント
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いやぁー、女って怖い。
烈しい情念に満ちた剥き出しの狂気とはまた違う、静かな情念と諦観、ぞっとするような冷酷さ。女の怖さをよく書けていると思う。
淡々とした語り口が一層不気味に感じられる。
特に欠点は見当たらず、文体も独特で、全体的に纏まりがあり
読みやすかった。
□匿名さんからの批評 (2003/12/11 01:41) フォント
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さらりとおもしろく読めました。よみかえして、あえて苦言。「急に電話かけてくるようになる。」「を」はいらないのかな?
最後の文は、当たり前ですよね。ねたを夫ににばらしたんだから。それよりなぜ、この日だったんだろう。機は熟したのか?あえて、何も無い日に淡々と、のつもりだったのか。
もっとこの著者は、的確な文章を書ける方の気がする。
□名無しさんからの批評 (2003/12/12 17:34) フォント
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熟年離婚ですね。定年間近ということは、退職金を慰謝料に、あとは娘と楽しく暮らそうという魂胆でしょうか。嫉妬というよりも、証拠を掴むために続けてきた習慣といった感じの、熟年らしい乾いた感じが良く出ていると思います。
それにしても、ネクタイを結んであげる際にしつけ糸を付けるやり方がいまいち想像できませんでした。気づかないものなのかな、と。
個人的には出だしのつかみが好きです。上手いと思います。
□名無しさんからの批評 (2003/12/13 00:41) フォント
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すんなりと読めました。全て「花」にしましたが、ホントは全て「実」にしようかとちと悩みました。
完成してますね。困った。
どこかアラ探しをしようと思って読み直してみても見つからない。ん!「もう直定年」の「直」かなっ!
そのくらいは全然問題にならないなぁ、ううむ。
「スタイルが確立してしまっているので、新たな境地を見つけましょうっ」
これって言いがかりだな。次回作、期待しています。
□名無しさんからの批評 (2003/12/13 00:52) フォント
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個人的な感想では、全作品中の完成度がピカ一でした。
カップルものとして登場人物の設定年齢が高く、新鮮です。

但し問題は、「こういう話を欲している人」つまり需要があるかどうかです。読者対象が狭すぎます。
完成度以上の読後印象がないと、このジャンルでは読者はついて来ないと思われます。別ジャンルというよりも、読者ニーズにこたえる話を考えていただきたいです。……というよりも、読んでみたいです。

□名無しさんからの批評 (2003/12/13 07:52) フォント
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細かい部分の粗が目立った。
内容もよくある不倫話で収束してしまい、読後感に欠ける。
全体的に見ればまとまって書けていると思います。
□はるさんからの批評 (2003/12/13 19:35) フォント
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よくまとまった作品だと思いました。
ただ途中から、描写の丁寧さがかけてしまったような気がします。
しつけ糸を絡めるってなんだろう?
読み方が悪かったのかもしれませんが、想像できませんでした。
文体はとても好きです。
□名無しさんからの批評 (2003/12/14 00:48) フォント
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 いいですね。面白かったですよ。一点言わせてもらうと年齢や結婚歴をわざわざ数字にしないでよかったと思います。「定年間近」ということと「子供たちも自立し家庭を持ち」なんて表現でいいんじゃないかと。
□水夫さんからの批評 (2003/12/16 17:20) フォント
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完成品ですね。しつけ糸という小道具の選択も非常に上手い。良いです。
□名無しさんからの批評 (2003/12/17 03:10) フォント
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スラスラ読める、面白い内容だと思いました。
ただ、最後も「別れましょう、あなた」と直球ではなく、遠まわしの言い方がよかったなぁ、と感じました。(個人的な好みですが……)
全体として、良い作品だと思います。次回作に期待です。
□名は無いさんからの批評 (2003/12/17 03:12) フォント
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熟年離婚が増えているそうですが、世相の反映なのか女性解放の兆しなのか。兎にも角にも、夫婦の問題というのは尽きないものですね。

淡々としていながらも、しっかりと進むお話にはひきつけられるものがありました。
一つだけ引っかかったことが。「もうすぐ」を「もう直」というふうに書いているのは、妻の年齢に合わせてのことでしょうか?少し気になりました。
□セツナビトさんからの批評 (2003/12/19 13:43) フォント
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しつけ糸の使い方が素晴らしい! 生地になじむ色で短く縫い付けておけば気づきませんよね。しつけ糸が戻ってくるという描写も面白かったです。

しかし、しつけ糸はどうしてなくなっていたのでしょうか。愛人がしつけ糸に気づいて毎回取ってたとか? 新しいネクタイを毎回買ってとか? そこら辺が少しあいまいですね。

あと、他の方が書かれていますが、良くある不倫話という印象が強いです。多分この手のお話が好きで、共感できる層はあるのでしょうが、ちと限定的かも知れません。完成度はかなり高いと思いますが、私はいまいち話の世界に踏み込めませんでした。だからと言ってここに発表するべきじゃない、もっと大衆受けする作品を作れと言いたい訳ではありません。ただこの手の作品にはそういうリスクもあるということです。

主人公たちの年齢に合った文体で、それがいい雰囲気をかもし出していると思いました。ただ、最後の台詞は無くて主人公の笑みで終わっても不気味で面白かったかも知れません。その他の部分は特に詰まることなく読めました。

先程も書いたように、完成度はかなり高いと思います。次回作に期待しています。
□名無しさんからの批評 (2003/12/21 05:49) フォント
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上手いですね。何も言うことは目立たないし、ありません。浴衣の完成と同じくして明かす旦那への真実。良いと思います。
どうしても苦言を呈するなら1点。最後の文章だけです。何かしらひねりのある文章を入れても良かったのかもしれません。

熟年夫婦の描写も非常にリアル。私の親を思い出してしまいました……。

次回作もぜひ読ませてください。
□名無しさんからの批評 (2003/12/22 16:26) フォント
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とても上手ですね。文章が本当に熟年女性の書いたような愁いを帯びてて、するすると読めました。不倫の物語ってあまり読んだことがなかったので、わたしには新鮮な感じがしました。
告白をした日、結婚記念日かなんかだとより恐ろしさが増すんじゃないかと思いましたが、くどくなってしまうかな…。指摘するところが見つからない作品ですね。次回も期待しています。
□愛さんからの批評 (2003/12/27 02:32) フォント
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何も言うことは無いです。構成も主題も、表現も素敵です。

しつけ糸とネクタイがどうなっていたのか、ちょっと想像するのが難しかったりしましたが、
とても面白く、印象に残るストーリーでした。
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