「夫の女」
藤枝夏
「……かな」
 夫が寝言で呟いた女の名前が、いつまでも耳に残って離れない。

 聞き覚えのある名前に、アルバムをめくる手の震えが止まらなかった。夫の社員旅行は確か二年前の夏。夫の隣に寄り添うようにしている女――澤村加奈。
 化粧気もなく髪の短い、まるで少年のような女。ショートパンツから惜しげも無く露出した太腿が、健康的な若さを誇示している。当時は気にも止めずにいたあどけなさの残る笑顔も、今となっては無防備を装った男への媚態にしか映らない。
 この頃から関係は始まっていたのだろうか、それとも私が妊娠してから?
「大学の頃から一人暮らしの子だから、こう見えて結構料理が得意でさ」
 夫の言葉を思い出して唇を噛んだ。
「私だって毎晩栄養のバランスを考えてるのに、あなた疲れてるって食べもしないじゃない。女の所に行ってるんでしょ……」
 嗚咽が込み上げてくる。胎教に悪いとわかってはいても涙が止まらない。
 私に気付かれたことを夫は知らない。それでも慎重な夫は、香水の匂いをさせて帰ることも、外泊することもなかった。夫の入浴時に携帯電話や財布のチェックをしても、不審な点は見当たらない。着信履歴やメールをまめに消去する姿を思うと情けなかった。
 社員名簿には、我が家からさほど遠くない女の住所が載っていた。私は女のアパートを訪れる自分を何度も思い描いた。二人が楽しそうにじゃれ合う姿を、女の口から漏れる吐息と夫の甘い囁きを想像せずにはいられない。私は吐き気を催した。
 抱いて欲しいと自分から誘う屈辱感と、拒まれた時のやるせなさ。数ヶ月に一度、義務のように体を重ねることの虚しさに胸が張り裂けそうになる。最近では夫は私の話をろくに聞きもせず、生返事を繰り返すばかりだ。
 あの女は、私が夫から受けるべき女の幸せのすべてを奪い取ろうとしている。掌に深く食い込んだ爪の跡がひりひりと痛んだ。

 深夜三時。夫が熟睡するベッドから抜け出して、医師からもらったエコー写真を眺めた。赤ちゃんはまだ僅かな陰影だけれど、確かに私の中に息づいている。
 大丈夫、これは幸福の影だ。夫も妊娠を喜んでくれていた。この子の誕生は、きっと私に幸せを取り戻してくれるに違いない。 
 明かりを消して静寂に包まれた闇に身を委ねると、青白い嫉妬の炎がくすぶり始める。指先が覚えた番号を押していた。今夜のコール音は七回。相手は無言で受話器を上げた。沈黙の中、互いの息遣いだけが漂っている。
 私は女の眠りを妨げたことに小さな満足感を覚えると、お腹を撫でながら子守唄を口ずさんだ。
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□匿名さんからの批評 (2003/12/10 17:41) フォント
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おもしろい。妊娠したものには分かる。しいて言うなら、寝言だけで、決め付けてるのは、ちょっと弱いか。無言電話は、近頃ねたとしては独身なら、ナンバーディスプレイと、非通知拒否は当然か。
□名無しさんからの批評 (2003/12/10 23:52) フォント
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「大学の頃から一人暮らしの子だから、こう見えて結構料理が得意でさ」

どの状況で夫の口からこの言葉が飛び出したのかはわからないけれど、この時点で二人の関係を怪しんでもおかしくないような気がしました。

一方で、「かな」と言う言葉だけでは上の方も書かれているように、決め付けとしては弱い気が。語尾にも使われますし。
それともこの妻の勘違いかも知れないという、含みを持たせる狙いがあるのか。
狂気を孕んだ空気はよかったと思います。
□名無しさんからの批評 (2003/12/11 00:56) フォント
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上の人と被りますが、寝言だけで浮気を断定することはできず、妊婦の情緒不安定さによる被害妄想なのかな、と思っていたらそういうわけでもない…? という、中途半端なところで物語が進行してしまっているような気がして残念です。
女のいやらしさは良く書けていると思います。ニヤリとさせられました。
□名は無いさんからの批評 (2003/12/11 02:19) フォント
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私としては最初は妻の勘違いで話は進むのかなと思いましたが、読み進めるとどうやら本気で不倫モードみたいですね。妻の狂気の表現が良かったです。

他の方も言われているようですが、冒頭の夫の台詞は少し解かりにくい気がします。「失態!料理が得意なんだ発言」の辺りから気がついていったほうが筋が通って良かったかもしれません。

いっそ、冒頭の台詞だけで引っ張って、本当は完璧に妻の勘違いのまま進んでも面白いかも。ちょっと構成が難しそうですが……
□名無しさんからの批評 (2003/12/11 23:24) フォント
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上手いです。ものすごく上手いと思います。

話の内容はさておき、表現力が突出して良い書き手さんだと思いました。特に、
「アルバムをめくる手の震えが止まらなかった。」
「掌に深く食い込んだ爪の跡がひりひりと痛んだ。」
が秀逸。こういった表現は分かっていてもなかなか書けないものだと思います。こうやって、人物の描写で人物の心情を表わすことの出来る書き手がたくさん出てきてほしいな、と思いました。
□名無しさんからの批評 (2003/12/12 23:36) フォント
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ダークな読後感が重く残ります。他作品に比べ、印象は深いです。

「影」発想としてはオーソドックス過ぎ、他との絡め方もいまいちです。
□名無しさんからの批評 (2003/12/13 20:15) フォント
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やっぱり、寝言の「…かな」だけでは決定的証拠には弱すぎると私は感じました。
なので、ずっと、もしかして、夫は浮気も何もしていないのに、主人公が勝手に勘ぐっているだけなのでは。だから物的証拠は他に無いのは当たり前で、相手のかなさんも、主人公のコトを気味悪いとしか思っていなくて、主人公は一人で不安になり一人で逆恨みし一人で満足している、だからこそコワーイ女性なのでは。。と思いながら読んでしまいました。

何度か読み返した現在も、やっぱりそう思えてしまう。実際に旦那様が浮気している話として書かれているのでしたら、ちょっと一方的な気がします。
読者にいろいろなイメージを任せるつもりのお話としたら、面白かったです。とても。
□名無しさんからの批評 (2003/12/16 03:06) フォント
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184の説明があった方がいいかも。
ちょっと被害妄想気味で、本当はどうなのか、なかなか考えさせられます。
□水夫さんからの批評 (2003/12/16 18:17) フォント
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浮気が事実なのか思いこみなのか。
明記するかどうか難しいけれど、いまの形で立派な完成品。
□名無しさんからの批評 (2003/12/17 15:05) フォント
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道具としての『電話』はフィクションの中では使いにくいですね。上から順に読み進めてきたので、三角関係ネタにもちょっと飽きてきているので評価が下がってしまいました。
□名無しさんからの批評 (2003/12/19 22:28) フォント
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妊娠中の不安定な気持ちを良く表現できてると思います。
きっと誰にでもあるんでしょうね。
こうやって嫉妬にかられて、思い込みだけで行動してしまうことが。
だからこそこの話の怖さが倍増していると思います。
□名無しさんからの批評 (2003/12/22 18:41) フォント
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怖くて良かったです。ある程度読者に委ねている部分も好感が持てました。
ただ個人的にこういう女の嫌〜なお話がとても苦手なので(生まれてくる子のこととか考えると、怖さ倍増です)、蕾にさせて頂きました。そのくらいに女のいやらしさや怖さが表現出来ていると思いました。
□セツナビトさんからの批評 (2004/01/10 08:37) フォント
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面白かったです。終始主人公の思い込みで文章が展開していくのが素晴らしくうまいです。疑いだしたら止まらないものですよね、特にこういう場合は。読んでいてハラハラさせられました。

表現も特にツッコミどころが見当たりませんでした。旦那の寝言から、という部分もそれだけ主人公が疑り深く嫉妬深いのだと解釈しました。こんな人奥さんにしたらホント怖いですね……

ものすごく力のある方ですね。これからもこの調子でがんばってください。
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