「虫」
桐野 京
 きっかけは男が持ってきた蝶のペンダントだった。アクリル樹脂に本物の蝶が埋め込まれたそれは、生々しい美しさをたたえていた。手にとると、色鮮やかなその姿がジャングルをふらふらと飛ぶ姿が目に浮かぶ。
「きれい」
「そうだろ。向こうで見つけたんだ。よかった、気味が悪いって言われるかと思ったよ」
「そんなことないわ。ありがとう」
 男は仕事上様々な国を渡り歩いているようだった。どんな仕事なのかはよくわからないし、わかりたくもない。ただ、私のような素性も確かではない女に家一軒を放り投げてよこすくらいだから、普通の仕事ではないのだろう。
 男は、どんなに忙しくても月に一度は十分な生活費を持って現れる。しかし反対に頻繁に現れる時でも一日以上ここに留まることはなかった。
 きっと私以外にも訪ね歩く場所はあまたにあるのだろう。
 出会ったころは、どんなに引き止めても帰っていく彼を熱っぽく責めたりもしたが、三年の月日が流れてはもう、その感情がどこから沸いて出ていたのかも解らない。
 いっそ男のことを恨めばまだ救いはあったのだろうか。しかし私はそうするにはあまりにもこの生活に馴染みすぎていた。

 蝶のペンダントを気に入った私は、同じように美しい虫たちが封じ込められた品々を買い集めた。
 捕らえられ、封じ込められたその姿に自分自身の愚かさを重ねている事は、とうに気がついていた。馬鹿げた事だと、幾度もやめようとした。しかし、生と死を称えたオブジェへの執着はますます強くなっていった。
 やがて私は専門店に寄っては本格的な標本を集め出した。
 そこには蝶のように美しい虫だけではなく、禍々しいものやみすぼらしいもの、嫌悪感すら思い起こさせる様々な虫たちが磔にされ、在りし日の姿のまま保存されていた。
「こんなものに囲まれて、平気なのか」
「ええ」
 男は気味悪がったが、きっかけが自分だけに制止はしなかった。そして相変わらずふらりと現れては私を抱いた。
 横たわったベッドの上で飾られた標本を見上げ、ぼんやりと私は思う。

 ああ私も、針で貫かれ、磔にされて、このまま時間を、止めてしまえたら良いのに。

 男の体が引き抜かれ、ベッドの上で私の時間は再び動きだす。そそくさと服を着る男の後姿に、この生活が長くは続かないことを改めて感じ取る。
 私は羨ましげに、永遠を手に入れた標本たちを、ただじっと見つめた。
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□名無しさんからの批評 (2003/11/10 14:30) フォント
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 ストーリーは楽しめました。空間の多い文体も、女性の心の空虚さと対応しているようでいいと思います。

 小道具としての樹脂の中の蝶とピンで刺された、いわゆる昆虫標本ではかなり質感がことなるのですが、この文章だけだと、その質感を乗り越えたことへの理由が弱い気がして、唐突に感じます。
 また「男の体が引き抜かれ〜」の部分は「針に貫かれる」ことと「男の体に貫かれる」ことを重ね合わせていると思うのですが「男の体」という言葉だけでは「針」の鋭さというか痛みというかが伝わらない気がします。他の比喩を使って、そこら辺が表現できていればよかったと思います。
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 00:05) フォント
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面白かったです。
ただ、主人公の感情があっさりしすぎていて物足りなさを感じます。男に対して愛情(愛憎でもある)を持っているという意識が明確にあるほうが、より切なくて良いような気もします。
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 00:29) フォント
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総合
短い文章のなかに上手くまとまった作品だと思います。
ただ、上手くまとまった文章だけに、些細な表現が気になったりしました。

たとえば、「普通の仕事ではないのだろう」とあり、その2文後に「訪ね歩く場所はあまたにあるのだろう」とあるので、「だろう」という表現がしつこく感じてしまいました。
また、「いっそ男のことを恨めばまだ救いはあったのだろうか」という箇所も、「いっそ」ではじめるなら「だろうか」という結びはおかしいと思います。「あったのだろう」とか、「あったのに」と結ぶ方がよいのではないでしょうか。逆に「だろうか」と結ぶなら、「いっそ」は余計だと思います。
それに「恨めれば」と、可能の意味を込めたほうが良かったのではないかと思います。

内容でいえば、虫のオブジェ収集から標本を集めるようになる過程がもう少し書かれていればな、と思いました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 13:11) フォント
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物語自体は面白いと思います。
ただ個人的には、文章中の表現の仕方が気になってしまいます。(主に修飾の仕方なので好みだと思いますが)
「生々しい美しさ」というのは、生々しいという言葉と美しいという感覚的に対極に位置するであろう言葉の修飾なので、違和感がありました(それが狙いかもしれませんが)それなら「妖しい輝き」などの方がすんなり読めるのだと思います。
また「放り投げてよこす」という文章は、この男の大胆さというか財産に固執しない様子を表しているのだと思いますが、読んでいて違和感を抱いてしまいました。
□匿名さんからの批評 (2003/11/12 09:22) フォント
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「蝶」と来たら単純に「レクター博士」を思い出してしまう私も悪いのですが、変身願望とか、そっちに行くのかなあ、と期待をして読んでしまいました。とまれ楽しませて頂きました。さて、「男」と記述されている人物に関しての書き込みがもう少し深ければ、全体のバランスが取れたかも、次回に期待しています。
□名無しさんからの批評 (2003/11/12 11:39) フォント
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発想も構成も面白いです。
表現がどうもしっくりきません。
「埋め込まれたそれは、生々しい…」の「それ」とか、
「どんな仕事なのかはよくわからないし、わかりたくもない」の「わかりたくもない」とか。
□水夫さんからの批評 (2003/11/12 16:19) フォント
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虫、というテーマに対して悪くは無いんだけれど、ちょっと読んでいて座りが悪い印象でした。
もう少し印象の強い描写があるとだいぶ違ってくると思います。
□名無しさんからの批評 (2003/11/13 17:52) フォント
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変化を願うのに、願うのみで留まり続ける女の心情が分かる文体で、素直に楽しめました。
しかし『もう、その感情がどこから沸いて出ていたのかも解らない。』という文章から、主人公の男への愛情は薄れているように見えるのに、『このまま時間を、止めてしまえたら良いのに。』と願うのはおかしいような気もします。
□名無しさんからの批評 (2003/11/14 15:48) フォント
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非常に上手く書けていると思います。
女の最後の独白が好きです。
次回作にも期待します。
□名無しさんからの批評 (2003/11/14 23:58) フォント
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動き出す私の時間と、永遠に泊まっている標本たちの時間。その対比はとても魅力的でした。

ただ、「〜だろう」「〜だろう」という表現が少ししつこいように感じてしまいました。良い意味で色気のあるお話を書ける方だと思いますので、今後の表現に期待しています!
□名は無いさんからの批評 (2003/11/15 03:25) フォント
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蝶のペンダント、本当にあるのなら一度見てみたいと思いました。

男性器こそが、女を繋ぎとめている虫ピンだったのでしょうか。だとしたら、女はどんな虫なのでしょうか。そういった発想は面白いと思いました。
男も女も(特に男が)淡々としすぎているのが少し引っかかりました。人間臭さが無いのかなぁ。その辺が出せると良かったのかもしれません。
□名無しさんからの批評 (2003/11/15 16:49) フォント
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何もかもが不安定な状態って感じが全体にあって、実際にそういう環境になった場合はこんな感覚なんだろうなっていう感じがしました。そんな感じのままぼやーっと進んでしまい、ちょっとまったり。
□松本さんからの批評 (2003/11/16 11:56) フォント
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私だったら、自分を針で刺すよりも、相手の男のほうを、針で刺して、時間を止めて、自分のものにしたい、と思うかもしれません。
でも、時間を止める対象は、自分なんですね。この女性さんは、今の自分を愚かだと思い、それを閉じ込めようとしている。彼女の世界が、このまま止まってしまうのは、気の毒でもあります。自分の羽で、大空に羽ばたいてほしいですね。怠惰な自分を乗り越えて。
□phさんからの批評 (2003/11/16 20:21) フォント
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ぞっとする雰囲気が出ていていいと思います。
ペンダント→オブジェ→標本と収集物が変化していくことが上手く繋がっていない気がしました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/17 00:27) フォント
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標本と囲われている自分の対比いう視点は良いですね。

これは個人的な好みなのかもしれませんが、『生々しい美しさをたたえて』いる蝶が『ふらふらと飛ぶ』のは良い表現だと思いませんでした。
『ふらりと現れては私を抱いた』男と掛かっているのかと差し引いても、引っかかってしまいました。

細かいですが『本物の蝶が埋め込まれた』蝶のペンダントは、大きいのではないかとここも違和感。
実はものすごく小さい蝶なのかもしれませんが、アゲハ蝶大のものを想像してしまった。

『男の体が引き抜かれ』は、やはり「男性器で貫かれた自分=磔にされた自分」を重ねているのでしょうか?だとしたら、『体が引き抜かれ』よりももっと生々しい表現もありな気がします。

文章はお上手ですね。危なげなく読めましたし、また読みたいなという気にさせてくれました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/17 03:02) フォント
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失礼しました。↑の評者です。
×磔にされた自分
○磔にされた虫
□匿名さんからの批評 (2003/11/21 17:55) フォント
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すっきりと読めて面白い良作だと思いました。

ただ少し「きっかけが自分だけに」が少々不自然な文に感じました。
あと「このまま時間を」の後の読点は無い方が効果的だと個人的には思います。溜めて溜めて一気に吐き出す感じで。
□匿名さんからの批評 (2003/11/25 12:50) フォント
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なんだか自虐的な女の人ですね。こういう感情って女性ならではのものという感じがします。かつその閉塞感がうまく表現できている文章だと思います。
「きっかけが自分だけに制止はしなかった。」この表現は私も気になりました。男性は女性が標本を集めだした原因が自分にあると気がついていたのでしょうか?この場合は気がつかずに無頓着であった方が効果的だったかな、と思いました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/25 13:34) フォント
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総合
楽しめました。自分の生活と標本を重ね合わせるという発想が面白かったです。
ただ、標本に興味が移るのが唐突のような気がしました。これなら最初から標本のほうがよかったのでは?
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