「断ち切る」
芦田幸
「お帰り。お疲れ様」
 隆之は今日もパジャマを着たまま、私を玄関先まで迎えに来た。愛嬌が溢れんばかりの笑顔。このせいで、私の決意は何度揺るがされたことだろう。
 私は靴を脱ぎながら必要以上に疲れた表情をして、なるべく隆之と目を合わせないようにしながら部屋に入り、着替えを始めた。
 冷え切った態度だって半年も続ければ日常だ。彼は私の不機嫌を仕事のストレスだとしか思わず、いつのようにベッドに寝そべると、漫画雑誌を途中のページから読み始める。
「今日も、ずっと家にいたの?」
 相変わらず目を合わせずに、わざと厭味な口調で私は訊く。隆之は漫画のページを捲りながら、んー、とくぐもった声で答えた。
 もうだめだ。
 ずっと悩んできたけれど、仕事を辞めて家に籠もるようになってからの隆之を、私はもう愛していない。このままずるずると同棲を続けることに何の意味も見いだせない。
 あるとすれば一つだけ。こんなに冷たい私のことを、隆之は誰より愛してくれている。それだけが私にとって意味のあることだ。
「疲れてるんだろ? マッサージでもしてあげようか。ほら、おいで」
 愛されることは嬉しい。自分以外の体温が浸透したベッドは温かい。だから私は隆之に別れの言葉を告げられない。隆之が悪いのではなく、一人でいる寂しさに耐えられそうにない自分の弱さがいけないのも解っている。
 私はもうそんな自分から卒業したい。
 だから今、言わなければいけないのだ。
「あのね、隆……」
 言いかけて、私は隆之の向こうにある壁に、黒く張り付いているものを見つけた。
 蜘蛛だった。世界で一番嫌いな虫。
 言葉を途切れさせたまま絶句している私の異変に気付いた隆之は、すぐに私の視線の先の存在を見つけ、小さく笑った。
「こんな小さい蜘蛛なのに。ちょっと待ってな。すぐに追い出してやるよ」
 隆之は新聞紙を手に取った。彼はいつも虫を殺さず、新聞紙の上に誘導して外に捨てるのだ。そういうところも昔は好きだった。
 けれど、今ここで隆之の優しさに甘えたら、私は今日もまた言いそびれてしまうだろう。
 こんな自分、厭だ。
そう思った次の瞬間にはもう、私の手は動いていた。鈍い音が、鉄筋コンクリートの芯にこだまする。
私は自分のしたことに驚いていた。
素手で壁の蜘蛛を潰してしまったなんて。

 部屋の白い壁に蜘蛛の体液による染みが出来たのを確認して、それから私は言った。
「私と別れて」
 言った瞬間、肩の荷を降ろしたような感傷と、掌に残る厭な感触に、涙が出てきた。けれど、それはそれで爽快だった。
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□名無しさんからの批評 (2003/11/10 21:24) フォント
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 読ませる力はある文章だと思いましたが、蜘蛛をつぶすことと別れの決断がうまく重なっていないように思いました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 12:19) フォント
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冷え切った女性の描写はとても面白いですが、もっと感情豊かでも良いと思います。嫌悪感を出したりとか。
でも、この展開はかなり好きです。私事ですが、一人暮らしを始めて初めて自分で虫を退治したときのことを思い出しました。別れの話ではあるけれど、前向きな姿勢を感じられて良かったです。
□phさんからの批評 (2003/11/11 22:35) フォント
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まとまっていて、すんなりと読めました。上手いですね。
ただ、私が彼のどこが気に食わないのかが、ただ仕事をせず家にいるという状況説明のみにとどまっていて、私がそれに対してどう思っているのか、なぜ別れたいのか、が伝わってきませんでした。想像はつきますが。

そしてこれはやはり、虫でなくても成立する話ですね。
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 23:45) フォント
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蜘蛛がなぜ嫌いなのかの説明がないため、この話の中ではただ潰されるだけの存在になってしまっています。
ただ潰されるだけの存在なら、ここでの蜘蛛は少し不自然だと思う。

最後の「それでいて爽快だった」は、文章としては理解できるのですが、「私の気持ち」としては伝わりません。
□匿名さんからの批評 (2003/11/12 10:10) フォント
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文章のスタイルがしっかりと確立しているのが、羨ましいです。
自立する女性と自立していない男性、この決別を綺麗に表現していると思います。ただ、美しすぎるきらいもあるかな、もっとドロドロした感じにしてもいいかなぁ。とまれ楽しませて頂きました。次回はどんな手でくるのか、楽しみです。
□水夫さんからの批評 (2003/11/12 16:39) フォント
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相対的な記載は反則だとは思いますが、頭から順番に読んでいてほっと一安心。内容も好みです。楽しみました。
□名は無いさんからの批評 (2003/11/15 02:45) フォント
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主人公の心情がゆらぐ表現は良いと思います。
ただ、文中ではちょっと改行が多いと感じました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/16 12:38) フォント
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一気に読めて楽しめました。
女性の別れ際の怖さが出ていてよかったです。

□匿名さんからの批評 (2003/11/16 18:11) フォント
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男の嫌な目に付くようになったところと,蜘蛛が、もっとイメージが重なったらおもしろかったかな。心当たりのある女性からは、「納得」って感じかも。
□匿名さんからの批評 (2003/11/19 12:42) フォント
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大嫌いな蜘蛛をつぶしたことがきっかけで、男と別れるという流れは何となく共感できました。女性なら、多かれ少なかれ共感できる内容だと思います。自分に妙な自身が持てるんですよね。虫をつぶすなんて些細なことに過ぎないのに。
ふがいないふにゃふにゃした男もいいスパイスになっていると思いました。
文中、改行が多すぎる点が気になりました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/19 23:42) フォント
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良くある話。
なんだかこういう話に飽きてきちゃいました。
文章力向上委員会、こういう話書く人おおいですよね?
新鮮さにかけました。
表現は申し分ないと思います。可もなく不可もなく。

全体的に個性がないと感じました。
□名無しさんからの批評 (2003/11/21 19:52) フォント
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文章にも内容にもかなり惹かれました。
流れも自然で状況も想像しやすかったです。
□名無しさんからの批評 (2003/11/24 01:46) フォント
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だらだら続けてきた関係を断ち切る小道具に大嫌いな蜘蛛を使ったことと、ラストの終わり方は個人的には好きです。

昔は好きだった隆之の虫も殺さない優しさの後には、そういうところも今は苛立たしく感じたといった表現の方が良かったような気がします。
その方が、気持ちが冷めてしまうと、何もかもが許せなくなるものだよね、と更に共感できたかも。

『素手で壁の蜘蛛を潰してしまったなんて。』は、少し説明的な気がしました。前後の文脈で蜘蛛を潰したことは十分読み取れるので、勿体無い気がします。
□名無しさんからの批評 (2003/11/25 13:50) フォント
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別れの話で、途中までは暗い結末を予感させていたのですが、ラストが明るくて良かったです。
もう少し彼についての描写がほしかったです。
□名無しさんからの批評 (2003/11/30 13:38) フォント
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 まず、改行が多すぎます。読みにくいです。それに、まあこれは私の個人的な解釈ですが、蜘蛛よりも嫌いな虫はたくさんいるので、蜘蛛よりももっと気持ち悪い虫の方が感情移入できます。素手で潰せる程度の虫と考えて蜘蛛にしたのかもしれませんが。

 ただ、嫌いな虫を殺すことで恋人訣別するというのは好きです。その潰された蜘蛛はきっと恋人との恋愛の象徴なんでしょうね。放っておくと彼はきっとまた優しく蜘蛛を逃がしたでしょう。その蜘蛛をあえて潰す。そして彼との関係も潰す。上手く重なっていると思います。
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