「さよなら」
小鳥遊苗
 ひっと自分でもわかるほど情けない声をあげて、私はひどく腰の引けた状態で床に手を伸ばす。
 小さく蠢くそれは、時折首をかしげるみたいにしてちょこなんと立ち止まり、それからまた傾いだ格好で床を歩き回っている。羽蟻にしてはかなり大きい。
 恐怖を感じてから、ふと、いつからこんなに虫が苦手になったのだろうと思う。あの足の蠢く様や、羽の薄らとした色の、とにかく何もかもが怖く見えるようになったのは。
 壁に追い詰めるような角度で、手にした殺虫剤をしゅっと吹く。勢いでそれがすっと床を滑った。ばたばたっと羽を動かすのを見て思わず退いたが、幸い、それは飛ばずにそのまま動かなくなった。
(どうしよう、これ)
 できるならばティッシュ越しでも触れたくない。それが手にした柔らかな紙の中つぶれてゆくことを想像してしまって、手が震えた。

 この間までは、私はこんなことに恐怖を感じなくても良かった。太一がいたからだ。彼は部屋に虫が入り込むたびにぽかんとして、
「あんなのが怖いの? ナナミは普段気ぃ強いのに、やっぱり女の子だったんだねえ」
と笑った。そしてそのたびに私はひどいわとふくれ、彼がさっさとそれらを捕まえて窓の外に放したり、死骸を棄ててくれる後姿を待っていさえすればよかった。殺虫剤やティッシュを手渡すだけで、すべてを彼に預けてしまうことができたのに。

 掃除が終った頃には日が暮れていて、私は慌てて窓を閉める。さっきのような思いはもうたくさんだ。虫の入り込む隙間も無いようにぴたりと閉めて、鍵をかける。カーテンの外れたガラス戸は、さぞ明るく外に光を零すだろう。誘蛾灯よりもずっと明るく。そしてそれを目指す虫達が、ぞろぞろと窓に張り付きだすに違いない。
 彼がそうして、より明るい光を求めて行ってしまったように。

 一人では広すぎる部屋をすべて片付け終わって、私はのろのろと立ち上がる。どこかから羽音がした。生きていたんだ、と疲れた頭で思う。ぶんぶんと耳にこびりつく音は、やがて私の脳髄まで伝わって身体を震えさせ、どこかのスイッチを押したようだった。涙が溢れ、私は立ち尽くしたままで泣き始めた。
 ぶ、ぶ、ぶぶぶ……。音はやまない。もう太一はいない。私が自分で何とかしない限り、この音は止まない。
 強くならなくては、と思う。そしてまた歩き出さなくては、この音を止めることは出来ないのだから。
 太一との思い出越しに、私は音が聞こえる方向に向けて、殺虫剤を一吹きした。
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□名無しさんからの批評 (2003/11/10 13:21) フォント
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恋人と別れたばかりの心細い気持ちを、虫が怖くて自分じゃ対処できないという気持ちを重ね合わせることで表しているのは上手ですね。
語り手の気持ちが伝わってきますし、女性らしいちょっと破れかぶれな感情の揺らぎ(すいません、僕が男だからか、「そんなことでそこまで盛り上がって落ち込むなよ!」と思ってしまいました。でもこれは個人的な見解なんで、批評じゃなく感想としての意見です。ただ逆に言えば、それだけこの作品が上手く情景を描いているということだと思います)も伝わってきます。

文章はいくつか「拙いな」と思える所が目に付きました。例えば、
『それが手にした柔らかな紙の中つぶれてゆくことを想像してしまって、手が震えた。』
など。『手』が2回続くことに少し違和感を覚えました。他にも『ちょこなんと』といった、いわゆる崩した表現(と言うのかな)というのは、語り手の個性を表すのを狙ったor作品の雰囲気作りのためと取るか、書き手が自分の言葉使いそのままに不用意に書いたと取るかで評価が分かれそうです。こういった言葉を使うことで、最終的に語り手の心情が伝わりやすくなったとは思いますし、作品全体の雰囲気作り(親しみやすい感じ)にもなっているとは思うんですが、文体があまりに「語り口調っぽい適当さ」に近づきすぎると、「地の文としての安定感」に欠けてしまい、読者に物語の理解を促すという本来の役割が不十分になってしまうと思います。
『手にした殺虫剤をしゅっと吹く。勢いでそれがすっと床を滑った。ばたばたっと羽を動かすのを見て〜』
こういった文章も、読者それぞれがどう取るかで、「擬音に頼ってる!マイナス!」「いやいや語り手のノリが伝わってくる。いい雰囲気」と評価が分かれるというか。
……正直に僕の気持ちを言えば、これらの表現は「マイナス!」なんですが、読後感や全体を見回して考え直してみると、決してそうとは言い切れない、むしろ雰囲気作りで「プラス」に働いているところもあるように感じるので、ここは判断が難しいです。

長々とすいません。まとめると、なんとなく文章に違和感を感じる点があるけれど、作品の雰囲気と語り手の心情がしっかり伝わってきて、構成も上手な、読んで「良かったよ」と思える作品でした。
評価は入力フォームの詳細文に合わせてつけました。今後も頑張ってください!
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 15:08) フォント
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ほかの作品でもありましたが、女性にとって自分で虫を退治するということが意外と大きな問題であるという発想が面白いです。たぶん、女性にしか書けない文章だと思います。
エピソードとしては、ただ虫を退治するだけということではあるけれど、感情が丁寧に書けていて良かったと思います。
□名無しさんからの批評 (2003/11/11 18:01) フォント
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虫というテーマからこのような作品ができるっていうのは素敵だなぁと思いました。
□名は無いさんからの批評 (2003/11/12 04:38) フォント
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私も虫は苦手なので、退治するのにちょっとした勇気と決心がいるというのは共感しました。
批評としては、読み手として少し表現の部分で物足りなさを感じてしまいました。ただ、『彼がそうして、より明るい光を求めて行ってしまったように。』の部分で、「元彼はやくも虫扱いかよっ」などと笑ってしまったのはご愛嬌です。
終盤の虫の羽音がしだしたところで、どんでん返しがあるのかと期待してしまったのですが、明るいまとめ方をされていたのは私としては軽く意表をつかれて面白かったです。
□水夫さんからの批評 (2003/11/12 18:43) フォント
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なるほど、虫退治。描写が良いです。順番に読んできて、最後の作品として感触が良かったです。

「太一との思い出越しに」みたいな気取った表現はちょっと苦手です。すくなくともここでは削った方がよさそう。
□匿名さんからの批評 (2003/11/13 05:45) フォント
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ううむ。そうかぁ、女性にとって虫を殺すというのは結構大変なことなのかなあ?いや、それは戦後教育の悪しき慣習なのか?とあふぉな感想はさておき、女性らしい、繊細な描写は気にいりました。男側からすると、この物語どうなんだろう?ちょっと書いてみようかな?という気にさせられます。次回、楽しみにしています。
□名無しさんからの批評 (2003/11/14 19:58) フォント
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 もっと「虫」に対する恐怖心と「太一」への思いを描いてほしかったですが、よい物語でした。
 表現が「蕾」なのは、どこかで読んだような表現が多いように感じたからです。
□名無しさんからの批評 (2003/11/15 15:52) フォント
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浸ってるなーって感じ。
最後の「殺虫剤を一吹き」は、彼との思い出も一掃って感じでよかった。でも、なんか、物足りない。
□名無しさんからの批評 (2003/11/15 17:16) フォント
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女性らしい感情が伝わってきます。
別れてからの揺らいだ感情が表現されてるし
思い出にとの決別のくだりなんかは好きですね。
□名無しさんからの批評 (2003/11/16 16:55) フォント
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良い意味で、ですが女性的だなぁと思います。
虫が恐くて捕まえられず、彼氏に取ってもらっていた。
私も虫が嫌いなので、その気持ちはわからなくもないです。
細かいことを言うようですが、別れた彼氏との思い出が虫を殺してくれたってだけなのかなぁとちょっと思いました。
他にも思い出はあるはずなのに、虫を殺して彼への思いとも決別する。
少し薄っぺらい気がしました。
□phさんからの批評 (2003/11/16 20:10) フォント
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解るなあ、こういう感情。悲しくなっちゃうときにはつい悲しいことを思い出してしまうんですよね。
せつない感情と場面の雰囲気が良く表現できていると思います。
難を言えば、ややありがちにまとまっていると感じました。
が、読み終わってしんみりする良い話でした。
□名無しさんからの批評 (2003/11/17 00:27) フォント
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表現方法というか、文法の問題というのかわからないのですが、読点のつけ方が雑な感じがしてしまって読む側は苦労してしまうのではないでしょうか。修飾関係を考えて付けられるといいのにな、と思います。
□名無しさんからの批評 (2003/11/17 04:49) フォント
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 ストーリーを素直に読めば、切なくて共感できる話なのですが、小説として読んだ時、書き方で気になる点がいくつかありました。不必要な改行が多いように思います。普通改行はシーンが変わる時に使われるものなので、出来ればあまり多用してほしくないです。
 話としてはいいと思います。私もこんな気持ちになったことがあるので、とても共感しました。
□匿名さんからの批評 (2003/11/24 22:15) フォント
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女性は虫が怖い、というのは偏見のような気もしますが、虫に対する恐怖心はよく描けてるな、と思いました。
今まで依存していた彼がいなくなって、自分の足だけで歩きつづけないといけないという決心を固める、という流れはわかりやすく、女性なら共感できるものだと思います。
何か物足りない感じがするのは、彼への思い入れがあまり描かれていないからでしょうか。何故別れるに至ったのか、具体的なエピソードが少しでも盛り込まれているとよかったと思います。
□名無しさんからの批評 (2003/11/30 17:46) フォント
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彼はどうして明るい光を求めて出て行ってしまったのでしょうか。主人公の思い出のなかの太一は、虫を怖がる女の子の主人公をかわいく想う、そのシーンのみ。出て行った彼を乗り越えて、一歩強くなろうとする主人公の成長は、短い字数のなかで分かりやすく丁寧に描かれていましたが、太一くんについてのエピソードがあまりに少なすぎるように想います。

ちなみにとっても個人的な意見なのですが、ラストが殺虫剤を吹きかけるというのは、ちょっと想い出のなかの彼氏を殺してしまうようで、何か他の方法でもよかったかなとも想いました。
□名無しさんからの批評 (2003/12/01 01:17) フォント
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誘蛾灯と、彼がより明るい光を求めて行ったという描写の着眼点が面白かったです。

虫を殺してくれる彼、別れてからは自分で解決しなければならない。
今回の作品の中でも別れのきっかけに虫を叩き潰した作品がありましたよね。
やっぱり女性にとっては虫を殺すのも、初めてのおつかいみたいに勇気がいるものなんだろうかと思いました。

彼の思い出が虫を通してしか表現されていないのが少し切ない。

『ちょこなんと』『柔らかな紙の中つぶれてゆくことを』など、独特な表現が面白いと思いました。

人の事は言えないのですが指示語が多いのが気になりました。
□匿名さんからの批評 (2003/12/04 14:28) フォント
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ちょこなんと、と出てきた瞬間に引いてしまった。こういう表現は、ありふれてと言うか、寒い。がんばって最後まで読みました。いいじゃん。と思いました。わたしは、虫は好きではありませんが、意味もなく嫌うわけではなく、ゴキブリとも戦う女ですので、太一君の気持ちは分かります。自立しろよと。少なくとも、努力せいと。
もっと打ちのめされて、その後虫と闘う女になったら、太一君も惜しかったと思えるようないい女になってるよ。そしたら、太一もなんのそのって、声かけたい気がしましたよ。女ですので、気持ちが分かりましたが(分かる気がした、勝手に推測、読み込み)このまま文章で
読むと、書ききれてない気がしました。次、がんばって。
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