|
ADvancationの由来と活動理念。
サークル名「Advancation」とは、Advertising(広告すること)、Advance(進める、促進する、前進、進歩)、 Advocate(弁護する、主張する)、Communication(伝達、相互理解)から成る造語です。 「今の若者には個性がない」、「没個性」と今の若者、私たちを指してそういう人がいます。 しかし、実際にはそんなことはなく、 それぞれがしっかりとした個性をもっていると、私は断言できます。 その理由を説明するために、だいたい個性というものが何であるか、 という定義が必要でしょう。 個性とは、端的に言えば、各々の独自的人間性ということだと思います。 自分が他人とどれだけ違い、どれだけ唯一無二の存在であるか、 それだけのどんな人間性を持っているか、ということでしょう。 そうして考えれば、今の若者、もとい、僕が接する同年代の人たちというのは決して「没個性」とは言えないはずです。 では、なぜそう言われるのか。 外見からファッションを取り上げましょう。 髪型からメイク、アクセサリー、洋服と、必ず一定のパターンが紹介され、 どれか自分の好きなスタイルをとる。 ひとつのスタイルが流行れば、そのスタイルで街を闊歩する。 出没するスポットはファッションにより限定され、 そこにはまるで動物園で同種の動物がひとつの場所に入れられているような状態がある。 ファッションを選ぶということ自体が個性であるのに、 一面的にしか捉えられない世間は、ひとつのファッションをひとつの群れとしてしか捉えられない、 そういう側面があると思います。 つまりは、そういう個性を各々が認識しあっていないからです。 個性を認識する、そのためにはそれを、伝えることが必要なのです。 それを媒体を通して行うのが、「広告」です。 一般に「広告」とは、商品やサービスなどを告知・販売促進するためのマーケティング術である、と言います。 しかし、現在の広告事情において考えるべきは、競合する他社他商品との差別化です。 この商品は他と比べていかに違い、いかに独自の売りを持っているか、 ということを伝えることが重要となっています。 さらに言えば、商品の「個性化」が今の広告の価値の主軸であるわけです。 しかし、「個性化」だけではいけない、 一方的に個性を押し付けるだけでは、消費者は動きません。 そこで、考慮すべきなのが、「コミュニケーション」です。 伝える努力、相互理解を深めようという精神が必要となってきます。 心地よく、分かりやすく、適度に刺激的で、包容感を与えるように伝えること。 それは、提案であり、説明であり、心遣いであり、 思いやりであり、信頼へとつながるものです。 若者が「没個性」と言われる所以は、 「自分がどれだけ独自の人間性を持っているか、伝える努力をしていない」というところにあると思うのです。 それは愛想の不足かも知れません。ただの認識不足かも知れません。 でも、そうやって大らかに考える余裕さえもなくなっているのが昨今です。 ADvancationという名前は、 第一に(地球上からならどこでも)インターネット検索で引っかかるような機能性を持ち、 第ニに、辞書には載ってないがなんか響きはいいという、造語の話題性からエンターテインメント性を生む、 第三に、語源から、前向きな気持ちを持ったまま、 決して誰も置き去りにしないコミュニケーション性を表現する。 つまり当サークルの理念は、 広告(ad)は、各場面におけるコミュニケーション性が大切であり、 それにより、高度な関係を築くことで、各々の個性を際立たせ、より活発な社会を構築できる。 と結論付けるものです。 その前提で、我々の中部大学について考えてみましょう。 現在、中部大学には5学部18学科、さらに大学院・留学生別科も合わせれば約8500人を超える学生がいます。 これだけの人がいれば当然のごとく、各々の個性は埋没してしまいます。 それはとても惜しいことだし、その中にこそダイヤの原石が転がっているかもしれません。 そんな個性を見逃したくないし、皆に個性があるとも信じたいのです。 そして、個性同士が反応し合い、コミュニケートし合い、新たな個性を生んでいく、 それが集まり、高度なコミュニティとなる。 中部大学広告研究会"ADvancation"は、そのためのソフトでありたいと思います。 このように、広告活動を必要とする場面は多分にあり、今も足りないような状況です。 情報社会に振り回されることを受け入れてしまい、発言することを失った時、 人は個性を失います。 そのために、情報化が進むに連れて広告も必要とされてくるのです。 そこにADvancationの存在価値があります。 ただシンプルに、興味を持って、様々なベクトルに働きかけていくことが必要なのです。 そのためには、批判も大いに受け入れる必要があると思います。 つまり、多面的に考えていく必要があり、 前述のように、個性は伝えなければ意味がないからです。 一面的な個性ばかりでは、伝わらないことが多いのだと考えます。 これは妥協ということではなく、先を考えた上での統合的なコミュニケーションです。 当サークルのテーマはこんなところです。 この考えに賛同してくれる人は、是非サークルに入ってください。 この考えにいまいち賛成できなくても、いまいちわからなくても、 「面白いことをやりたい」と考えている人は、このサークルに入ってください。 考えなんてのは結局どうにでも変わるもんです。 テーマなんてあってないようなもんです。新たなテーマは、あなたが造るものです。 広告研究会 "ADvancation" |
|
現代的対人コミュニケーションにおける
共通認識の大切さと 笑いの共感性との関係 2002.11
1. 対人コミュニケーションにおける「共通認識」
対人コミュニケーションにおいて大切なこと。
私はそれを、送り手と受け手の共通認識であると考える。
既に、コミュニケーションの概念として定義されている15の群があるが、
その中に、「共同性を中心とするもの」がある。
それによると、「コミュニケーションとは、1人または何人かに占有されている事柄を、
2人または多数者の共通のものへと作り上げるプロセス」とあった。
また、他にも、「多くの場合、移動した情報は、いぜんとして相互に共有されている。
したがって、『コミュニケーション』という言葉は、『共有する』という意味も含んでいる」と説き、
さらに、別概念として、連結や結合、つまり、
「コミュニケーションとは、現実世界のばらばらな諸部分を互いに結びつけるプロセス」とも定義している。
このように、コミュニケーションそれ自体に、共通・共有・相互理解、また連結・結合というような概念があるようだ。
連結・結合という概念は、対人コミュニケーションに適したものではないが、
メッセージを送り共通の効果を得ようというプロセス自体が、結合と言えるのではないか。
私が考える、対人コミュニケーションにおける共通認識。それは、どのような段階において付加されるべきなのか。
以前教えていただいた(「インターパーソナル・コミュニケーション」深田博己)、
「対人コミュニケーション・プロセス・モデル」から考えてみた。
その中で、共通認識が特に重視されるべきと思うのは、送り手と受け手の立場、
理解するためのコンピテンスと、実行するためのパフォーマンス、伝えるメッセージ、
それの通過するチャネル、邪魔をするノイズ、到達した効果、情報の返還といえるフィードバック、場面のコンテキスト、
個人の経験の場、といったところだろう。
符号化−符号解読、倫理という場面は、それぞれ共通認識の及ばない、もしくはその必要のない次元であろうと考え、外す。
こういったプロセスの各場面において、共通の認識がより多いほうが、対人コミュニケーションは円滑に進むと思う。
では、人はなんのために対人コミュニケーションを行なうのか。
深田博己氏の文から引くと、対人コミュニケーションを行なう代表的な目的として、
@情報や知識を得ること、A楽しむこと、B相手に情報や知識を伝えること、
C相手に影響を与えること、D相手との対人関係を形成、発展、維持すること、E課題を解決すること、
の6種類をあげることができる、という。
ここで、直接的に「共通認識」が関係するのは、@それを獲得すること、Bそれを伝達することの二つ、
つまり、情報や知識それ自体こそが「共通認識」の目的であると思う。
他の4種類は間接的に「共通認識」が関わる。
すなわち、情報や知識を送ることで、それを媒介し、派生や発展をしようとする目的である。
2. 対人コミュニケーションと自己開示・呈示
また、対人コミュニケーションを自己についての情報の発信として利用する場合がある。
それが意図的で、本当の情報である場合、「自己開示」と言い、
演出的−つまり他者に対して特定の印象を与えるために自己に関する情報を調整して伝達するとき、「自己呈示」と言う。
自己についての情報を相手に与えようとすることは、
つまり、相手と共通の認識を得ようと、あるいは、そう見せかけようと言う意味合いがある。
自己開示は、対人的には、二者関係の発展、社会的な印象や関係のコントロール、
親密さの調整などの機能がある。自己的には感情浄化、自己明確化、社会的な妥当性の確認などの機能を持つ、という。
かわって自己呈示は、印象の操作や管理によって、
報酬の獲得や損失の回避、自尊心の高揚また維持、社会的勢力の維持・増大を目指す機能がある。
そうした自己開示・呈示をベースにして、相手を動かすコミュニケーションが「説得」と言えそうだ。
これは、送り手の説得でもって、相手の自己情報発信(自己開示・呈示)を促そうというもの、
つまり、説得で相手に共通の認識を伝え得させようとすること、である。
3. 対人コミュニケーションにおける共感性と「笑い」
もちろん、共通認識を共感性と言い換えることも出来る。
こう言い換えると、情報や知識単体ではなく、それによる効果や発展も含みやすくなる。
人が対人コミュニケーションで喜びを感じるとき。
それは、両者が互いに共感性を持ったときではないか。
互いに意見が合わない、話が通じ合わない時のもどかしさと言ったら、心理学的に説明するまでもないはずだ。
だから、自己開示・呈示なり、説得なりのコミュニケーションが行なわれるわけだ。
人は共感を持ったとき、どんな非言語的メッセージを伝えるか。
それは、「うなずき」であり、さらに親密さが増せば、「笑い」となる。
しかし、「笑い」は親密な仲においてだけでなく、これから新たに親密な関係を築こうとする場合にも活用される。
これは自己開示・呈示的だとも言えるし、説得的であるとも言えるが。
つまり、「笑い」はより高度な共感性を作り出すことのできるメッセージであると思う。
「笑い」は共感性を作り出せる。
言い換えれば、「笑い」は共通認識から成り立っていると言うこと。
共通認識と密接に関わっていると思う。共通のモノ・コトが笑えるという状況、
情報(ネタ)と効果(可笑しさ)、フィードバック(笑い)がダイレクトに繋がると言う状況は、
「笑い」のほかにない。
「涙」や他の感動には、それなりに咀嚼する時間があるから。
「笑い」は、直接的に繋がれば繋がるほど優れているとされる場合もある。
4. 人の「笑い」は変化しているのか?
テレビなどメディアの普及により、映画・ドラマ・音楽など多岐多彩、
だけど画一化された文化・芸術、またその価値が人々の日常生活に入り込み、言葉や感覚にも変化を与えた。
80年の漫才ブーム以降は、それまで演芸場だけにとどまっていたはずの漫才が、
そのメッカ・大阪のみならず全国に、漫才的なコミュニケーションを広めた。
本来は、漫才師と客という完全に区切られた立場、状況で、エンターテインメントとして笑いを楽しんでいたはずだが、
一般人が漫才師のように面白い会話をしてしまうようになった。
つまり、今の時代に、対人コミュニケーションを考える場合、
「笑い」は、決して欠かすことの出来ないものだと思う。
ここから、「笑い」と共感性の係わりについて書くために、
過去と現在、フランスと日本の「笑い」のエンターテインメント事情の二つを参考として比較する。
ベルグソンの著した、1920年代当時のフランス「笑い」界を題材にした「笑い」という論文。
つまり、「笑い」が完全にエンターテインメントとして独立していた時の「笑い」に対する考え方である。
それによると、笑いは、「@人間的でなければおかしさはない」
「A無感動さが伴う、つまり、平静かつ統一された魂の表面に落ちると言う条件において笑いが生まれる、
そしてそれの実際の環境が「無関心」である。
純粋に知性だけの人間の社会があるとして、その人たちは泣くことはないだろうが、
笑うことはある。逆に、感性のみに動かされ、全ての出来事が感情の延長にあるような魂は、笑いを知らず、理解しない。
例えるなら、人々が踊るサロンで、ただ音楽の音に耳をふさぐ、すると、踊っている人々が滑稽に見えてくる」
Bの指摘として、「笑いは、前述の知性がほかの知性たちと連絡を保っていなければらない」としている。
「もし人が自分を孤立していると感じたならば、おかしさを味わわないだろう。
笑いはこだまを必要としているように思われる。
だが、無限ではなく、一つの円内で進行する。
つまり、笑いは、常に一つの集団の笑いである」という。
その上で、
「笑いは、現実の、あるいは仮想の、ほかの笑い手たちと相互に理解している底意、
ほとんど共謀したとでも言いたいほどのある底意をひそめている。
劇場で、観客の笑いは客席が混んでいればいるほど広がるという。
それにまた、多くの滑稽な効果は、ある国語から他の国語へと翻訳することは不可能――
つまりある特定の社会の風俗、観念に依存するものであると言うことは、
何度も人々の指摘したことではないか。
だが、この二重の事実の重要さを理解しなかったから、人々はおかしさの中に精神が戯れている単なる好奇心を見、
笑いそのものには、他の人間活動と関係ない奇妙かつ孤立した現象を見た。
そこで、精神がいくつかの観念の間に見て取ったおかしさを、ある抽象的な関係としようとする定義、
『知的対照』『感性的不合理性』などが生まれてくる」。
哲学的な言葉が並び立てられてわかりづらいところもあるが、つまり、ベルグソンは「笑い」を、
人間的空間に共通の知識を通らせること、とした。
がしかし、当時の「笑い」のエンターテインメント事情では、
人の目には、それはただ奇妙で孤立的に映ったようである。
これは、「笑い」が一般に根付いていなかった社会の特筆すべき現象である。
5. 「松本人志」にみる「笑い」の共通認識
現代の日本の「笑い」事情、それを論じるため、引き合いに出すのが、
漫才師・ダウンタウンの片割れ、松本人志である。
「松本人志ショー」という、阿部嘉昭氏が松本人志について書いた本書を参考にする。
関西という漫才的土壌に浸かりまくった、兵庫県尼崎と言う工業地帯の下町に生まれた松本人志は、
自然と対人コミュニケーションにおいて漫才的方法を使っていたはずだ。
工業という無機質な知性を持った人々が人間的に繋がるために、「笑い」を利用したとは考えられないか。
元々、大阪は商人の町であり、そこから笑いの文化が生まれたわけだが、人間的な大阪商人文化に比べ、
工業地帯・尼崎ではそれにもまして、無感動で奇妙な「笑い」が生まれる土壌があったのではないか。
松本人志の笑いには、無感動で奇妙な、完結しない「停滞」を用いたものが多い、というのが、阿部氏の論である。
停滞する日常を笑う、松本氏の作ったコントで、「おかんとマー君」というコントがある。
松本はおかん(お母さん)、相方のツッコミ・浜田がその息子に扮するコントで、車の中が舞台。
≪松「マーちゃん、待って待って!ちょっと乗せてって」/浜「アホか、お前」(〜)
松「アレないの?アレしい…アンタあの…命のベルト」/浜「なんやねん」(〜)
松「シートベルトせえへんかったら、ゆで卵が割れるねん!!しい!!」/浜「わかった、もう、するやろ」(〜)
松「[口紅を塗るためにバックミラーを自分の方に向ける]」/浜「なにさらしとんねん!!」/
松「何やの…、直してんやないの!!」/浜「後ろ見えへん」≫。
「笑い」が一つの対人コミュニケーションのスタイルとしてあった関西では、「笑い」が孤立せず、
受け手の認識と結びつき、共感を持つことが出来た。
そして、対人コミュニケーションにおいてリアルな、「停滞感」が笑いに感化されたことで、
笑いに共感性がより認められるところとなった。
6. 現代の対人コミュニケーションと共通認識
阿部氏は、ダウンタウンの東京進出が成功した90年代前半頃から、またバブル経済が崩壊したころから、
日本はアジア化し始めた、という。
例として、茶髪・日焼け・ミニスカートで、きつい化粧、ルーズソックスで固めた女子高生の群れをあげる。
そして、携帯電話がアジア的なごちゃごちゃをネットワークでまとめあげた、と。
現代の対人コミュニケーションにおいて、アジア的な部分は免れない。
無数に飛び交う情報と言う名の知性が、コミュニケーションを行なう両者を焦らせる。
「あれも言える、これも言える」と節操がない。
そこで、共通の認識を得ることは難しくなってきている。そこに「笑い」という共通項が必要とされるべきだ。
すると、その上に共通認識が盛り込まれ、コミュニケーションはより円滑になる。
メディアが乏しかった時代、「笑い」は、見物するためのもので、送り手と受け手の共通認識は重視されなかった。
時が経ち、メディアが栄えた今の時代、「笑い」は対人コミュニケーションの一つとなった。
「笑い」は、共通認識=共感性という対人コミュニケーションにおける重要性の基礎に沿い、
今後さらに重視されていくべきコミュニケーションではないか、と思う。
そうして、「笑い」を理解し、利用しようという動きが出てもいいのではないか。
それこそが対人コミュニケーションの理想形であると、私は考える。
○参考文献
・ 「インターパーソナルコミュニケーション〜対人コミュニケーションの心理学」(深田博己著、北大路書房)
・ 「笑い」(ベルグソン全集第三巻所収、白水社)
・ 「松本人志ショー」(阿部嘉昭著、河出書房新社)
kauch |
| トップページへ |